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2018年07月08日12:18

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レバノンの地下牢で・下

レバノンのベカー高原のある一角で、シリア軍の武装兵士に拘束され、地下牢に閉じ込められたのは、バールベック遺跡からの帰路の途上だった。
86年夏、私は、70年代はじめに結成された日本赤軍の重信房子がそれへの支持を宣言していたPFLPが最初に拠点を置き、私の高校同期のMも在監中の75年、シンガポールハイジャック事件実行犯たちの要求で出獄し、そこに向かったまま、居所も生死も不明のままの中東という土地をこの眼で見てみようと思ったのだ。
かつての”中東のパリ”の首都ベイルートは、瓦礫と難民と武装野戦兵の街だった。

ベイルートでは、そこが中東のパリと呼ばれ、国際ビジネスマンたちで賑わっていた時代の代表的なホテルであったリッツ・カールトンに滞在した。欧米人ビジネスマンの誘拐が相次いでいたその当時、滞在客は、私を含め10人前後ほどに過ぎなかった。
7年間続いたレバノン戦争の戦火の影響で、その豪華な高級ホテルの窓ガラスには、いくつか破れた穴が開いたままだった。
空港で乗ったタクシードライバーは親切な男で、ベイルート市街は、外国人はイスラム武装勢力に身代金目的で誘拐され、とても危険だ、どこかに行きたいときはすぐクルマで迎えに来るから必ず呼べと、いわれていた。

バールベック神殿の遺跡は、中近東の夏の蒼穹に、数本の巨大な円柱を聳え立たせていた。
内戦下だったため、海外観光客は勿論、人っ子1人いず、森閑と静まりかえったなかで私は1人で石畳の上に寝そべり、高い碧空を黙って見上げ、2千年以前からそこにある神殿の気配と、それがそのなかを生きてきた永い時間が語るものに、耳を澄ませていた。
だがそうしている私には、それ以前、じぶんの20代がほぼそれと重なる70年代の10年間の、その内部の心象が、蘇ってきた。
それは、言葉にならない重苦しさと空しさと、つねにそれが去らない悲哀だった。新左翼セクト同士の殺戮の内ゲバの10年は、襲ったり襲われたりの直接の下手人たちの精神も生涯回復不能なまでに荒廃させたことは間違いないが、一時はその運動に全身で真剣にかかわり、したがってその陰惨な動向から目を背けることはその後も出来ないでいた私たちのような者たちの心も、囚われたままにしていた。それから10年ほどの時が経ち、現在は中近東の高原に身を置いて、二千年前以上の悠久の時間が無言で語り掛けてくるものに心身を浸していても、戦後史の直近の10年の心象の重苦しさは拭えず、いっぽう、その陰惨とはまったく独立に、この蒼穹の悠久が存在していることも事実だと、感じられた。

客の私とドライバーの2人を乗せたクルマを停止させたシリアの現地部隊の兵士たちは私だけを降ろして、私が逃げたりしたらすぐ撃てるように間近で銃を突きつけながら、ある場所に連行して行った。
そこは、小石だらけの沙漠の高原の一角にある建物だった。
私たち3人はその建物に入って階段を降り、私は地下にある小部屋に入れられ、扉の外からカギをかけられた。
そのすぐ外側には、ここまで私を拘束して連れてきたときとおなじく、銃で武装した兵士が2人、立哨した。
そうして1人だけ、その部屋に閉じ込められた私は、ドストエフスキーの『死の家の記録』での死刑執行の場面の描写などが浮かび、じぶんの精神が明らかに平常ではなく、恐慌に陥りつつあることを、感じた。

このままではまずい!と、私は思った。
見知らぬ外国で外国軍軍兵士に地下牢に単独で幽閉された状態がまずい!というよりは、明らかに激しく動揺し、恐慌をきたしつつあるじぶんの精神の現状がまずい!と、思ったのだ。
現状の精神のままで思いつくどんな考えも、ましてや行動も、危険だ、それは現状の条件や予測を冷静に踏まえぬままでおこなわれるもので、それにすぐ従うのは短慮にちがいなく最悪だ、と思ったのだ。
まずその精神のパニック状態を脱することがもっともやるべきことだ、と考えた。
どうすればそれが出来るか。
そうだ、じぶんの精神状態、心の状態がそうなったと判断されるまで、ゆっくりと深呼吸を、何十回でも何百回でも繰り返そう、と考えた。
それを、その場ですぐ、はじめた。

何分くらい、何十分くらい、それをそのまま反復したか。
おそらく、30分か40分くらいではなかったろうか。
私は、ようやく、じぶんの精神が平静に戻ってきたと、感じられてきた。
そうなってみてはじめて、じぶんがいかなる条件の環境に置かれているのか、私をこの場所に閉じ込めた側は何を考えているのか、この後私をどうしようと思っているのか、が明瞭に把握されてきた。
おそらく彼らは、日本人である私(それはパスポートですぐ分かる)を、あるいは日本赤軍の一味か片割れではないかと考え、そういう者が内戦下のこのような不穏で危険な時期に、なぜここに来たのか、身分は何か、レバノンでの滞在期間はいつまでで、このあと何をするのか、などの尋問をするため、恐らく英語でその会話を私と交わせるある程度上級の士官を呼びに行っているのであろう、と推測したのである。

私のこの推測と判断は当たり、暫くたってその展開が続いた後、私は解放された。私は、「じぶんはマーケティングリサーチ会社のビジネスマンであり、この国が戦争から脱したときに市場としてどんは魅力を持った土地かをリサーチし、ソニーやパナソニックやトヨタなど顧客の大企業群になどに報告するためにやってきた」と、その士官に説明した。かれは国際報道で外交好きの当時のわが国の首相の中曽根のことはよく知っており、私の説明に納得した。
おそらくその拘束と幽閉の時間は、たいしたことはなく、全部で2時間前後ではなかっただろうか。
だがそれは、結果的に無事で解放された後になってからいえることで、そのような閉鎖空間に単独で閉じ込められたときには、なかなかすぐにそう冷静にはなれぬものと、実体験者の私は、いえる資格はあろう。そういう際の精神の危機管理の方法として、私が思いついた深呼吸の数十回の繰り返しは、どこででもすぐ出来、悪くない着眼だったと思う。
また、私はその冷静になった後の判断のなかで、この先の最悪のケースは、何しろここは中央や司令部からは遠方の僻地にある少数の現地部隊だ。だとすると、面倒だから射殺して埋めてしまえば後腐れも面倒もない、とこの場の兵士たちだけで短慮の処置をする恐れもゼロではないな、とも思った。だがもしそうなったらなったで、それはこれまでのじぶんの生きかたが招いたつけなので仕方がないと、案外冷静に思ってもいた。
(この項完)
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