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2018年07月04日11:17

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タムルアン洞窟の13人

タイ北部の洞窟に入ったまま9日間も行方も安否も不明だった11歳から16歳までの13人(25歳のコーチ1名を含む)の子どもたちが、無事だと確認された。
ただ、流れ込んだ大量の雨水を避けるため奥へ奥へと逃げ、現在いるその場所は入り口からは5キロも先で、しかもそのやや高台になっている場所へたどり着くまでには、潜水具をつけたダイバーでないと行けない水深の地域もある。
実際にその生存地点に最初に到着したのは、英海軍の特殊部隊だった。
全員の無事が確認されたのは何よりだったが、この13人の少年たちを救出するには、結局、その全員に用具を着けた潜水技術の訓練を現在地でさせ、水を潜って帰還させるしかないらしい。だから、その全体の期間は、およそ4か月かかるということである。
私は、その間の閉所恐怖、不安、体調悪化などをいかに防ぐのかがポイントではないかと、考える。

この事件を知って私がすぐ想起したのは、10年8月に起きたチリのコピアポ鉱山における地底への閉じ込められ事故のことだった。
落盤事故で600メートルも地底の33人の安否が不明だったその生存が確認されたのは、落盤事故から18日後のことだった。
事故発生地点から傍に設置されていた避難場所での生存が、その場所と地上を繋ぐ細い通風孔を拡大するために掘削していった直径8センチのドリルを引き上げたとき、そのドリルの先に、「33名全員無事生存」とスペイン語で赤い文字で書かれていたことで、分かったのだ。その通風孔を広げ、全員を600メートルの地上まで生還させるには、約4か月は要すると、見られた。
だが、密閉空間での長期の生活で心身を健全に保つための専門アドバイザーの米NASAからの派遣や、その場所でのストレス発散のため、日本の川上工業から贈られたプチプチつぶしのプラスチックをはじめ、全世界からの支援で、実際にはその期間は大幅に短縮され、69日後に、全員の生還がかなった。
その後の専門家たちの検証によれば、現場でのリーダーの人格と統率力、全員に適材適所の役割を与えて日々の目標と生き甲斐を持たせたこと、地上との連絡により家族たちからの声や手紙が届けられたこと、などの要素が大きかったとされている。


それより前の96年の12月、ペルーのリマの日本人大使公邸で開かれていた天皇誕生日の祝賀パーティの際、MRTAと名乗る極左ゲリラ組織の攻撃に襲われ、200名の出席者が人質とされた。
ゲリラは仲介に当たった現地赤十字の申し入れをうけ、高齢者、女性、子供たちは解放と離脱を認めたのので、全部で4か月以上におよんだ占拠機関のうち、徐々に解放者をふやし、翌年春の時点に囚われている人質は、40人程度になっていた。
4月22日、その数か月まえに始めた大使館隣家の地下からの特殊部隊突入のためのトンネル掘削工事が終え、大使館真下まで到達した。この方法による解決を指示していたフジモリ大統領の命令により、特殊部隊が突入した。
その突入の際に爆弾を使用するのでその危害をうけぬよう、日本人20名を含む人質たちは、人質の1人であったペルー陸軍幹部へ渡されていた小型無線機で2階の奥の部屋への避難をさせられていたため、ペルー人司教1人を除き、全員無事であった。
突入の際の銃撃戦で、特殊部隊の大佐と中尉の2名が犠牲となった。
ゲリラ14名は全員射殺されたが、後の司法の調査により、そのなかには投降の意思と身振りを示し武器を捨てた者もいたとの人質からの目撃証言もあり、フジモリ大統領はこの行為の命令も含む不法行為の罪で刑事告訴されている。

今回のタムルアン洞窟をふくめ、その突発の緊急事態を非日常の密閉された環境でいかに耐えるかの過去20年ほどの世界でのケースとして私に想起されたのは、上記の3つの事件だった。
私自身が、そのような危機管理の当事者になった経験は、一度だけある。
86年、中近東のレバノンのベカー高原で、当時レバノン全土を武力で実効支配していたシリア軍の現地部隊に拘束され、地下牢に閉じ込められたときだ。
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