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2018年07月03日12:54

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雨の中の女ーコッポラの初期作品から

現在の私という人間を作ったのは、小林秀雄と吉本隆明だと書いた。
この2人の自己史的共通点とは、2人とも他人の妻を奪ったことが示しているように、疾風怒濤の若年期を持っていることだ。
もうひとりの私の好きな文学者である無頼派作家の石川淳。
かれはそういう分かりやすい自己史的青春期のドラマこそ持たないが、幕末期の浅草の旗本崩れの血脈を父祖に持ち、じつに80歳を超えてから、アナキズムとアナキストの風の乱れ飛ぶ日本近世史の物語である『至福千年』『荒魂』『狂風記』などを書き続けた履歴と作家魂をみれば、この人物と疾風怒涛が無縁どころではないことが、分かる。
私は、狭苦しいこの島国の世界だけに囚われず、広いアナーキーな視野を持ち、俳句的、箱庭的美意識に終始する近代日本文学百年の閲歴をすべて吹き飛ばすほどの迫力を持った文学者は、戦後に小説を書きはじめた金子光晴と石川淳のただ二人だけだと、思っている。精神の太さでは、戦争期に満州の山野を放浪した檀一雄や、医師の職と家庭を放擲して愛人と九州に失踪してしまう戦後短歌の岡井隆もおなじ地平であろう。
ところで。
そういう文学者たちの仕事に心を奪われた若年期を持つ私という人間の最大の欠陥は、そういう破天荒で非常識なことーその疾風怒濤は、むろん他人の妻を奪うことだけに限られないがーなどただの一度も夢想したこともない人間の心と人生のありようが、リアルには、分からないことだ。
60代も終わり近くなってようやく、私は、ふつうの若い女性が望むのは、じぶんを慕ってくれる男性と早く結婚し、子どもを生んで、その子たちを育てることが、掛け替えのない人生の幸福なのだと考えているのだということが、分かってきた。
そこに、18歳からの10年間の私の片恋が成就しなかった原因があり、今ごろそんなことが分かるところに、私という人間の救いがたいバカさ加減がある。
精神のどん底に陥り、Cさんとのこともどうしていか分からなくなっていた20代中ごろ過ぎのある時期に、フランシス・コッポラの『雨の中の女』という映画を観た。
これは、結婚し、ふつうの幸福を得ながらも、ある日突然、じぶんにもこれといって理由の分からないまま、家出してしまった若い女性の物語である。
見知らぬ街に行き、夕暮れになると、ひどく心配しているであろう夫のことを思い遣り、心配しないで、と電話を繰り返す姿が描かれる。
何の変哲も特色もない中西部の田舎町を毎日長距離バスに乗って移動し続ける若い女。雨の降り続く、殺風景な光景。
彼女は、何を望んでいるのだろう?
ふつうの人の、若い女性の生とは、何なのだろう?
なぜか、忘れがたい映画なのである。
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