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2018年06月11日20:31

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高裁「DNA型鑑定、信用できぬ」 袴田さん釈放は継続

■高裁「DNA型鑑定、信用できぬ」 袴田さん釈放は継続
(朝日新聞デジタル - 06月11日 15:02)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=5150513

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1966年に静岡県清水市(現・静岡市)で一家4人が殺害された事件で死刑が確定した元プロボクサーの袴田巌さん(82)=浜松市=について、東京高裁(大島隆明裁判長)は11日、再審請求を認めない決定をした。静岡地裁は2014年3月に再審開始を認める決定をしていたが、高裁はこれを取り消した。弁護側は高裁決定を不服として、最高裁に特別抗告する方針。


 地裁決定は袴田さんの釈放も認めていた。高裁は「年齢や生活状況、健康状態などに照らすと、再審請求棄却の確定前に取り消すことは相当であるとまでは言い難い」として、死刑と拘置の執行停止は維持した。このため、最高裁の結論が出るまで袴田さんの釈放は続く見通しだ。


 確定判決は、事件の1年2カ月後に現場近くの工場内のみそタンクから発見された、血痕がついた5点の衣類を「犯行時の着衣」と認定した。再審開始を認めた地裁決定は、衣類のうち、シャツの血痕から袴田さんとは異なるDNA型を検出したという本田克也・筑波大教授の鑑定結果の信用性を認め、「衣類は袴田さんのものでも、犯行時の着衣でもない」と判断。これを不服として即時抗告した検察側は、本田教授の鑑定が「独自の手法で信用できない」と主張してきた。


 これに対し、高裁決定は本田教授の鑑定方法などに疑問を呈し、「結果も信用できず、(無罪を言い渡すべき)明白性が認められる証拠とは言えない」と逆の判断をした。5点の衣類が犯行時の着衣という点に「不合理な点はない」とも述べ、「(袴田さんを)犯人と認定した確定判決の認定に合理的な疑いが生じていないことは明らかだ」と結論づけた。


 死刑囚の再審請求が一度認められた後に取り消された例としては、61年に発生した名張毒ブドウ酒事件がある。この事件では2005年に名古屋高裁が再審を認めたが、翌年に同高裁の別の部が取り消した。再審請求をめぐる争いはその後も続き、事件を起こしたとして死刑が確定した奥西勝元死刑囚は15年に89歳で病死した。(小松隆次郎)


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〈おことわり〉 朝日新聞では、静岡地裁の再審開始を認める決定を受け「袴田巌死刑囚」という表記を「袴田巌さん」に改めました。東京高裁は再審請求を認めない決定をしましたが、地裁が認めた死刑と拘置の執行停止は維持され、弁護側が最高裁に特別抗告を予定していることなどから、引き続き「袴田巌さん」と表記します。
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この事件はとても不思議である。起きたのは、1966年、裁判が行われたのが1968年。だから再審するなら、当時の捜査官、検察、判事も連れてきて、お白州に座らせ鞭打ちしながら真実を述べさせる責任が裁判所にはある。

当事者の誰が生きていて、誰が既に死んだかは知らないが、これは当事者が一人しかいない裁判であろう。その上で、どうも冤罪らしいという状況証拠があって、問題は、それがどうひっくり返しても状況証拠でしかない事である。

DNAが違うなら決定的ではないかと思えるが、鈴木広一大阪医科大教授によって、本田克也筑波大教授が行った方法(抗Hレクチンを使用)がDNAを分解するため、結果は正しいとは言えないという主張から、どうも決定打ではないようである。

DNAは例えばネアンデルタール人の骨髄から取り出したものを検査する場合も、少しの油断で汚染されるものである。なぜなら触るだけでも皮膚上のDNAが写ってしまう。それで汚染である。もし空気中にそれが漂っていれば、どういう結果を産むかも分からない。だから少量に対して厳密に行う場合は、無菌ルールくらいの厳しさが必要になるわけである。

だが、DNAが信用できない場合、その証拠をどう理解するかは難しいであろう。信用できないことは、それ以前の主張が正しいとは言えないという話になる。だが、証拠の扱いの厳密性は、それ以外のすべての刑事事件に影響するから、そう短絡に正しいと認める訳にもいかない。

たとえば一万年前の殺人事件について、当事者が霊魂となって生まれ変わって、俺の無実を現在の最新科学で証明してくれ、というクライムサスペンスがあったとして、どうであろうか。

死体がミイラ化でもされていれば幸いだが、骨だけになっていると死因は分かってもそれ以上のことは難しい。骨さえないとお手上げであろう。凶器の石器だって、既に証拠はすべて失われている。もしかしたら指紋が残っているかも知れないが、なとも言えない話である。

たった50年前でも現在の科学は無力である。だからといって、冤罪の可能性について、過去の判決が信用できないかも知れないという場合、それをどう扱うかは、裁判官の良心による。

『第七十六条、すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される。』

だが良心に従う自由はあっても、説明しなくて良い理由ではない。だから判決文にはずらずらと判決理由が書いてある。だが、この証拠は信用できない、この証拠は信用できると書いてある以上、もしそこに誤りがあった場合、その無能さについて糾弾されなくてよい理由にもならない。

そのような怖さを裁判官は持っているが、ときに検察の犬としての役割しか持たない裁判官もいる。その上で、一審とは逆の味方を提示する事で、三審への露払いを役割と考える裁判官もいる。

だが、この事件は本当のところはどうだ、と問われると答えはない。誰にとっても答えのない事件で、誰かがどちらかと決めなければならない。だから、疑わしきは被告人の利益にが、実は裁判官にためにある言葉なんだと納得した。

では、この判決はどうであろうか。疑わしきよりも、過去を重要視した結論有りきの判決にも見えるのである。それについて納得するのは僕たちの仕事ではない。裁判官の仕事は判決を下す事ではないのではないか。すべての人を納得させることが出来るかを言葉を尽くして語る事ではないか。

おそらく弁護士たちはこの裁判官の判決文を一文一文読み込んで、どの点を覆せば無実となるかの解析をもう始めた事だろう。

いずれにしても、もし冤罪となった時、それを罰する制度は司法制度を根幹から崩す。そんな制度があったら誰も有罪など下せない。だからといって、無能者の好き勝手を許す制度も望ましくはない。

近代国家を支える司法の最大の焦点、良心というものが実は人間の気まぐれと見分けがつかない事は、注目に値する。それをAIで置き換えられればよい制度が生まれると思うのだが。

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