mixiユーザー(id:62458480)

2018年05月14日23:49

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うーむ、難しい問題だなあ。

国語という教科があるじゃん。たくさんの言葉を知って、てにをはを知って、意思疏通をはかれるようにするだけならともかく、筆者や主人公などが、その文面からどういう心情や考えを持っているかが問われ、模範解答があるわけよ。
いろんな人のいろんな表現に対して、誤解なくよみとる力なわけだ。でもさ、考えてみな。そういうストーリーを筆者は作ってはいるものの、じつは心じゃ違うことを考えているかもしれんじゃないか。

かつて大槻ケンヂというミュージシャンが、新興宗教オモイデ教という小説を執筆していた時に、ラジオでこんな事を言っていた。
中間(という登場人物)が、主人公に対して喋るシーンの事。シリアスな場面であるが、その時オーケンは、連日の徹夜執筆で頭がおかしくなっていて、前後の文脈を無視して、「ボヨヨヨヨヨン、オマゴギャー」って突然書いたら、編集の人激怒するだろうな。でも書きてーって衝動を必死で押さえ込んだそうだ。

実際にそのシーンの文面から、執筆者がまさかそんな事を考えていたとは、行間を読むのに長けた人でも無理だろう。つまりはだ。その人の考えや感情は、その瞬間の当人でしかわからない。時間が過ぎれば自分自身何を考えていたかなんてえのは少しずつ書き変わるもん。ただそれじゃあ情報伝達なんて到底無理だから、書き残されたものから、執筆者が登場人物を通して、どのようなストーリーに乗っけているかを読み解くだけの事なのよ。

道徳がルール化されたとして、それが政治的な目論見があったとして、それで採点されたとして、それって今国語で行われている表現力に関する教育と何が違うんだろう?

確かに善悪を大きな力によってコントロールされるのは、もはや民主的でもなんでもないのだけど、結局名もなき個人個人は、それぞれが主権者などと言われたところで大きな力による判断にすり寄って生きている節はあるし、相容れない大きな力の判断に対して、やれ右翼だ左翼だと言っては罵りあっているだけじゃないか。

第二次大戦後、教科書のほとんどに墨を塗って消してきた、なんて話を聞いたことがある。学校教育の中で、正解と不正解なんてのは発見や社会の変化で簡単に変わる。諸行無常の世の中で教育しなきゃならんのだから、明日正解が変わるかもしれんけど今はこうね。で良いと思うんだ。

そもそもなぜ道徳を教科として取り入れる、なんて考えたかを想像すると、多様性に重きがおかれている風潮の中で、大きな力が統率がとれていないと感じているからではないかって思う。中国みたいになりたがっているように思う。ちなみにそれに反対な考えは、多様性の何が悪いという考えなんだと思う。その行き着く先は、自分等の選んだ大統領を自分等で裁いてムショ送りにしている韓国だ。ちなみに僕はどっちも嫌だ。だから偏りたくない。
とはいえ、んじゃ今の日本はといえば、大声を張り上げて罵りあう中国になりたい派と韓国になりたい派の間でガクブルして、一枚岩になれずに取り残された国に見えて、とても情けないのだけどな。

尾木ママ不安「道徳的価値を国家が決めるなんて」
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=8&from=diary&id=5110055
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