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2018年03月10日23:00

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札響の2月定期&ふきのとうホール・シリーズ

<札幌交響楽団第607回定期演奏会>
【プログラム】
 武満 徹
1 「乱」組曲
2 ファンタズマ/カントス
3 遠い呼び声の彼方へ!
   ***** 休 憩 *****
4 弦楽のためのレクイエム
5 系図ー若い人たちのための音楽誌ー 詩:谷川俊太郎

 三瓶 佳紀(クラリネット)
 アレクシス・シオザキ(ヴァイオリン)
 中井 貴恵(語り)
 札幌交響楽団
 尾高 忠明(指揮)

2018年2月24日(土),14:00開演,札幌コンサートホール

<札幌交響楽団 in ふきのとうホール Vol.2>
【プログラム】
1 モーツァルト: 行進曲 ニ長調 K.290
2 モーツァルト: ディヴェルティメント 第7番 K.205
3 ワーグナー: ジークフリート牧歌 op.103
   ***** 休 憩 *****
4 シェーンベルク: 室内交響曲 第1番 ホ長調 op.9

 札幌交響楽団
 佐藤 俊太郎(指揮)


札幌交響楽団が2月に行った演奏会から2つ取り上げる。ひとつはオール武満プログラムの2月定期演奏会,もう一つは室内オーケストラの編成で比較的めずらしい作品を演奏したふきのとうホールでの演奏会である。ふきのとうホールは2015年7月にオープンした221席の小規模な演奏会場で,帯広市で創業した六花亭の札幌本店6階にある。このコンサートは,六花亭と札響の主催。

演奏そのものとは直接的な関係はないものの,地方オーケストラが直面する深刻な問題があらわになった演奏会だった。オール武満プログラムの2月定期演奏会の昼公演は,会場を見渡すと6分程度の入り。前日の金曜日夜公演も厳しい集客状況だったと聞く。このことには以前にも触れたことがあるが,少子高齢化が進む中で,オーケストラの活動を支える聴衆をいかにして確保するのかという問題である。1961年に創設された札幌交響楽団を共に支えてきた定期会員が,高齢化に伴い演奏会に来場することが難しくなる一方で,新しい会員の獲得が思うように進まない現実を2月の定期演奏会が突きつけた格好だ。演奏家はいても聴きに来る人がいないという状況に着実に近づいていて,それに対して有効な手を打てないでいる。

2月の定期演奏会はオール武満プログラムだが,比較的ポピュラーな作品で構成されている。「弦楽のためのレクイエム」しかり,「『乱』組曲」しかり,コンサート以外でもどこかで耳にしたことがあるはず。「ファンタズマ/カントス」や「遠い呼び声の彼方に!」だって武満の代表作に準じるような作品だろう。他の作品ほど知名度はないにしても,「系図」は童謡に匹敵する聴きやすさである。武満徹の音楽が体質的に合わないという人はいるかもしれないが,この定期演奏会に来なかった定期会員の多くはいわゆる「現代音楽」に対する拒絶反応を起こしているだけではないのか。もう少し突き詰めた言い方をすれば,学校の音楽の時間に「鑑賞」した作品以外には心を閉ざしている,音楽的な世界を自ら狭くしているだけではないのか。

憶測に過ぎないが,こうした風潮に風穴を開けたいという意図もあって,尾高忠明はこのプログラムを組んだのではないか。この街の音楽好きの保守的な傾向は思ったよりも強く,とりわけ札響の定期会員において顕著である。このオーケストラの設立当初から支えてきた会員は「名曲」以外の作品にはかなり強いアレルギー反応を示すようだ。定期演奏会の様子から察して,馴染みの薄い作品がプログラムに取り上げられていても,事前にCDなどで予習してくる人は例外だろう。札響の音楽監督を長く務めた尾高忠明はこういった事情を熟知していて,この壁を打ち破らない限り札響に未来はないと考えていたのかも知れない。だから,武満の音楽の中でも知名度の高い作品や来場者にアピールする楽曲を織り交ぜたのだろう。中長期的な観点から定期会員の殻を破る一助となるようなプログラムにしたかったのではないか。

前音楽監督の試みは半ば成功したとみていいだろう。2月定期演奏会の来場者は拒否反応を示すどころか,この作曲家の音楽が持つ懐かしい昭和の響きに包まれ,ある種の温もりを抱えながら家路についた人が多かったのではないだろうか。とくに「系図ー若い人たちのための音楽詩」から,このような印象を受け取った人は多数いたはず。谷川俊太郎の詩集「はだか」(1988年刊)から武満徹が6編を選び,テキスト朗読にオーケストラ伴奏をつけた作品。自分のルーツを辿るようなテキストとノスタルジックな響きが,聴く者の心の襞に沁み入る作品で,童謡を彷彿とさせる。だが,音楽作品としての完成度は「ファンタズマ/カントス」や「遠い呼び声の彼方へ!」に及ばない。両作品とも器楽独奏つきの管弦楽作品で,前者のクラリネット独奏と後者のヴァイオリン・ソロ,それに寄り添うオーケストラの響きがブレンドされ,官能的な美しさを湛える。そして,「『乱』組曲」と「弦楽のためのレクイエム」は,このオーケストラらしからぬやや粗い演奏。札響は武満作品が持つ精妙さを表現するのが得意だったはずだが,どうしてしまったのか。とはいえ,尾高忠明の思惑どおり,ほとんどの聴衆は武満作品も悪くないと思ったはず。

それにしても,尾高忠明が札響の来し方行く末を気にかけていることが如実に表れている定期演奏会である。破産の淵に立たされた札響を音楽面で立ち直らせたのも尾高忠明なら,レパートリーの幅を広げて聴衆の眼を開かせることに大きく貢献したのも尾高忠明だ。彼こそ札響が抱える問題を的確に把握し,それに対して着実な手を打っているように映る。札響の未来は尾高忠明のような親身になってくれる指揮者を獲得できるかにかかっている。

札響のふきのとうホール・シリーズは,ある意味,定期演奏会のプログラムに入れると,客足の伸びが落ちるなどの懸念を持たざるを得ないような作品が,演奏会の中心に鎮座するようなプログラムの演奏会である。Vol.1では,モーツァルトの「グラン・パルティータ」は措くとしても,R.シュトラウスの「13管楽器のための組曲」や今回のシェーンベルクの「室内交響曲第1番」は聴きたくないという定期会員は少なくないだろう。

その反面,こうした作品を聴きたくてウズウズしている音楽好き少なからずいるのもである。そのような熱烈な要望に地道に応えることも,オーケストラの自己変革には欠かせない。事実,221席のふきのとうホールは,この日全席完売満員御礼の大盛況。この種の音楽に目が無い人もいて,こういうコアな層にアピールするコンサートを開くことで,少しずつでも状況を打開できそうな芽があることが実証された。そして,何よりもオーケストラの団員が「13楽器のための組曲」や「室内交響曲第1番」のような作品を演奏したくてウズウズしているのでは。少なくとも,いやいや演奏しているようには見えなかった。

ただし,残念だったのは,演奏の精度が甘すぎたこと。札響のメンバーがこのホールの響きに慣れていないこともあり,「ディヴェルティメント第7番」,「ジークフリート牧歌」,「室内交響曲第1番」は作品の持ち味を表現するにはアンサンブルが粗過ぎる。屋外で吹奏楽の演奏をきいているときのように,音は大きいもののバラバラな印象を与えるレベルだった。貴族の舘で開かれる宴へと来賓を先導する音楽「行進曲」は,当時の演奏を忠実に再現したものだったのかも知れないが。

ふきのとうホール・シリーズも2月定期も,いつもの定期演奏会に比べ若い聴衆が多かった。定期演奏会で左隣に座った若者は作曲を勉強している学生のようで,武満作品のスコアを持参して演奏が始まる寸前まで予習していた。こうした層も惹きつけるコンサートが増えてくれると嬉しいし,札響の存続も万全なものになるのではなかろうか。
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