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2018年02月26日19:47

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正宗白鳥から見た雑誌の盛衰

出版人にとって雑誌の創刊は心躍り、廃刊・休刊は身が切られるほど辛い。坪内祐三・選『白鳥随筆』(講談社文芸文庫)の四、五の随筆に、「出版界の光景を一瞥し、或いは凝視して」(「今年を回顧して」)来たと自負する文壇人から見た、明治・大正の総合誌・文芸誌の盛衰が記録されていて、温故知新とはいかないにしても興味深い。少年期の白鳥は、徳富蘇峰主宰の雑誌『国民之友』をむさぼるように愛読して感化をうけた。

まず総合雑誌では、「明治二十年代の中期に博文館から『太陽』が出て、当時の綜合雑誌の最も有力なるものであった」のだが、博文館は「講談社と岩波書店とを合併したような出版社であって、雑誌の数も十数種に達していた。……それで文筆業者は博文館に隷属しているような有様であった」(「編集者今昔」)というのだ。「小説雑誌としては春陽堂の『新小説』が最も信用があり勢力」があった。白鳥の処女作「寂寞」も『新小説』に出したものである。「自然主義の勃興する頃までが『新小説』の全盛期であった」のだが、新年増大号にずらりと並ぶ著名な作家の作品の過半は「実は門弟などの代作である噂が伝わった」(「明治三十年代」)というから呆れるほかない。

とは言っても、「明治三十年前後では、春陽堂に及ぶものはなかった。名作の多くはこの書店から出版された」という。ところが、「時代の潮流に乗じ、自然主義作品の発表に努力」した『中央公論』が、名編集者とされる滝田樗陰の奮闘もあって「売れ行きが増し、文壇の注意も惹き、文学雑誌としての貫禄がつくようになった」(前同)ばかりか、一人天下を築くことになる。一時期の白鳥は「僅かに中央公論という雑誌一つを、私などの重な財源として生きるのは不安に違いなかったのだ」(「歳晩の感」)と往時を回顧している。

そこに創刊されたのが『改造』である。大正8年の創刊で、昭和19年に廃刊に追い込まれているから、横浜事件とともに誌名を記憶するだけであるが、やがて「『中央公論』と並び立って雑誌界に勢いを揮うこと」(「円本のことなど」)になる。アインシュタインを日本に招聘したのも、「現代日本文学全集、すなわち円本なるもの」(前同)を刊行して一世を風靡したのも改造社であった。

白鳥によれば、その頃「時世の潮流が変転し、文壇にも新旧の変化が起ったのである。そして『改造』はそれ等の変遷に調子を合せて進んだ」。すなわち、「有島武郎が大流行作家として出現し、菊池、芥川、久米或いは宇野、広津、葛西などの新進気鋭の作家が続々と健筆を揮うようになったのだが、改造社はそれ等新作家の作品を自由自在に取り入れ」、「時世の変遷に乗って成功した」というのだ。さらには、「左翼思想が勢いづいて来ると、それに飛びついて誌上を賑わすようにした」(前同)のである。

しかし、「山川均だの、大杉栄だの、あの頃羽振りのよかったプロレタリア論客の論文を盛んに取り入れ出した」のは、「そういう思想に共鳴」したからではなく、「そうした方が、雑誌の景気がよくなり売れるからやっただけなのだ」と判明しても、白鳥は目くじらをたてないが、「明治二十年代の徳富蘇峰の『国民之友』や、三宅雪嶺の『日本及日本人』などには、売る事以外に、自己の主義主張を発揮する気持があったようである」(「編集者今昔」)と言い添えることを忘れない。ちなみに、『改造』は戦後復刊されたが、長くは続かなかった。同じく廃刊の憂き目をみた『中央公論』も戦後復刊し、一時期オピニオンリーダーとして論壇に君臨する感があったが、今はその面影をとどめない。

白鳥は「四五十年に亙り、雑誌の盛衰を見て来たのであるが、営業として文学雑誌で利益を挙げていると云う話は聞いたことがなかった」(「我が悪口雑言」)と、春陽堂の『新小説』、坪内逍遥時代の『早稲田文学』、博文館の『文章世界』など具体例をあげている。昔も今もその構図は変わらない。そんななか、『新潮』は読者の好奇心を惹こうと、覆面の論客が思う存分「文壇人の作品私行などについて、無遠慮な悪罵毒舌を弄する」「不同調とか題する欄」(「『新潮』と私」)を設けた。これを読みながら白鳥は、「新潮という雑誌は伝統的に悪口雑言臭を多分に持っていたこと」が回顧されるというのだ。

「一度我善坊陋宅へ、新潮記者が来訪して、或る問題についての私の意見を聴こうとした事があった。予定してページを空けてあると云うのであった。『僕は何故に新潮如き雑誌の命を奉じて、我が意見を述べる義務があるか。そっちで勝手に空けたページを、僕は埋める気にならない。』と云うような事を、私が極めて無愛想に云うと、記者は二の句がつげないで不機嫌な顔して帰った。それで、次号の新潮には、私の悪口雑言が必ず書かれるであろうと、私は予期していたが、この予期は外れなかった」(「我が悪口雑言」)

どうやら新潮の悪口雑言臭のDNAは、『週刊新潮』などにかたちを変えながら今もなお生きているようだ。若い頃、「悪口雑言を書いて飯の種にしたこと」もある白鳥は、「悪口雑言で糊口の資を得ねばならぬような文筆業を一生の職とするのは、望ましい事でないとつねに思っていた」(前同)と回顧している。
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