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2018年02月22日20:43

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かぶれて、つもりになって、抛棄した

坪内祐三・選『白鳥随筆』(講談社文芸文庫)のつづき。

白鳥の青年期における内村鑑三への心酔ぶりは、先に記したとおり随想「内村鑑三」「内村鑑三雑感」などに詳らかである。ところが、なぜ、いかにして離れたのかはあまり言及されていないが、本書に収録されたいくつかの随筆に、それは呆気にとられるほどあっさりと表白されていて、その素っ気なさに驚いた。

「私は、曾て基督教を信じて居たことがあった。然しだんだん信じられなくなって仕舞ったのか、別にこれという原因は無い。唯自然にそうなったのである。兎に角、今は信仰の影だも無いということは事実だ」(「行く処が無い」、「文章世界」明治四二年七月)
とすれば、その頃、内村鑑三への心酔からも醒めたということか。「何処へ」を「早稲田文学」に連載して文壇で注目された、白鳥30歳の頃の回想である。

内村鑑三の「非戦論」についても、読売新聞に勤めながら処女作「寂寞」を発表した、25歳頃の白鳥はすでに冷ややかである。

「日清戦争の際には、正義の戦として、日本の態度を讃美し、日本の軍閥や政府から頼まれもせず、お礼も云われないのに、『国民之友』誌上などに戦争宣伝の英文を寄稿していた内村鑑三も、日露戦争当時は、前日の非を悟って、世に正義の戦争無しと高調しだしたのであったが、当時内村崇拝熱の冷めていた私は、この先生の非戦論にはかぶれなかった」(「少しずつ世にかぶれて」、「花」昭和二二年三月)

むしろ「領土拡張の快感に周囲が浮かれていると、私も次第にそれにかぶれたのであった」というありさまである。

還暦をこえた白鳥は若き日を顧みて、「基督教を信じたつもりで人生永遠の問題を考慮するつもりになっていたりしたが、若かった時に老人染みた考えに心を労していたことを今思い出すと苦笑されるばかりである」(「思い出」、「早稲田文学」昭和一五年一一月)と、自身の「つもり」ぶりに「苦笑」するのだが、そこで受けた影響は少なくなかっただろうから、ほろ苦い「苦笑」かもしれない。

さらに、古稀を目前にした白鳥の感慨は、「基督教は外来の清新な宗教であったために、私などはそれにかぶれたのであったが、……かぶれたものに徹底しないのを、私は悲しむことがある。基督教にかぶれたのなら一生かぶれ通せばよかったものを、雑作なくこの教えを抛棄したのであった」(「少しずつ世にかぶれて」)というものであった。気触れたものは醒めるのがならいと得心した。
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