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2018年02月21日21:07

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正宗白鳥が書翰集から炙り出す漱石文学

正宗白鳥の随筆はおおむね直截かつ率直でけれん味がない。
白鳥は読売新聞への寄稿を依頼するため、ただ一度だけ千駄木に夏目漱石を訪問したことがあるというが、それはともかく手許にある漱石全集の『書翰集』の感想を綴った「漱石と私」(「文芸首都」昭和二三年七月)は、坪内祐三・選『白鳥随筆』(講談社文芸文庫)のなかの優れものである。

白鳥は、「漱石が必ずしも、低徊趣味俳諧趣味の作家でなかったことは、書翰集にも明らかに分る」として、『草枕』発表後、鈴木三重吉に宛てて「激越な文学観」を開陳した書翰を引いている。

「苟(いやしく)も文学を以て生命とするものならば、単に美というだけでは満足が出来ない。間違ったら神経衰弱でも気違いでも入牢でも何でもする了見でなくては文学者になれまいと思う。……一面に於て死ぬか生きるか、命のやりとりをするような、維新の志士の如き烈しい精神で文学をやって見たい」

つづけて、漱石が「草枕のような主人公ではいけない。あれもいいが、矢張り今の世界に生存して、自分のよい所を通そうとするには、どうしてもイブセン流に出なくてはいけない」とも言っているのを見て、白鳥は「一般世間の見ているような漱石的文学観」をただしながらも、「書翰集を通じて、漱石が最も感動して推讃した小説は、藤村の『破戒』である」のは不思議であるというのだ。

いきなり話は拵えもの談義にとぶが、漱石は「〔国木田〕独歩の作物は(巡査)以外は悉く拵えものである。……〔田山〕花袋の(布団)も拵えものである」と言っていると知って、「そういう意味では、漱石の作品も無論拵えものである」と容赦ない。

「翻って冷静に考えると、『坊っちゃん』の如き、嘘八百のつくりものであり、藤村の小諸に於ける教師生活の描写のような真実は全くないのである。それに関らず、読者はこれを本当のつもりで読んで面白がるのである。拵えものでありながら、真実以上の真実として読者の胸に迫って来るのが、作家の身上で、独歩と漱石との手腕を比べたらどうだろう。独歩は他の自然派作家なみに、創作能力が貧寒であり、漱石の豊富さには遠く及ばないのだが、貧寒なところに、芸術離れした人間の木地がおのずから出ているのである。漱石のには御念の入った、そらぞらしい作り物がありそうだ」

返す刀で「そらぞらしい作り物」と一刀両断する論法は、白鳥の真骨頂に見えるが、漱石文学の往年の愛好者に言わせれば、「嘘八百のつくりもの」と承知のうえで面白がっているので、もともと「本当のつもり」で読んでいるわけではない。人間・漱石が「時々自卑の念に責められることもあった」のは、ことさら感心するほどのことではないように思われた。
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