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2018年02月11日19:36

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正宗白鳥「我が生涯と文学」にみる宗教観

白鳥の「我が生涯と文学」(『内村鑑三・我が生涯と文学』講談社文芸文庫)を語れば、おのずから内村鑑三に及ばないわけがない。

「内村鑑三先生は、日露戦争当時、堂々と非戦論を唱えたので有名であるが、先生は、その以前に、徳富蘇峰主宰の『国民之友』誌上で、『何故に大文学は出でざるか』とか、『如何にして大文学は現れるか』とか題して、その理由を追究していた」のだが、「その理由は珍しいことではないので、内村好みを、鋭利な筆で力説しているに過ぎなかった」と評している。

すなわち、「日本の文士は惰弱である。遊蕩である。信仰がない。道義心が乏しい。正義のために闘う気力がない。学殖がない。ダンテやゲーテのような世界の大文学を知らないで、義太夫なんかを好むからよろしくないと云ったりしていた」のであるが、当時、白鳥は「内村先生崇拝で、その著作のすべてを熟読し、その講演のすべてを、路の遠きを厭わずして聴き歩いていたのであって、先生の文学観には、その宗教観同様、無理にも服従していて、『文学とはかゝるものか』と、一先ず合点していたのであった」と回想している。

ところが、その後に「先生は、偏狭なキリスト信者であり、旧武士道的風格を具えたキリスト信者であった」などと思いもかけない冷徹な言葉が続くのには驚いた。

白鳥は「植村(正久)先生には宗教的に師事し、先生から洗礼を受け、数年間絶えず説教を聴いていた」、一方、「内村(鑑三)先生の講演に全精神を傾注して知識を得んとしたのであった」と言う。つまり、宗教的に師事したのは内村鑑三ではなく、植村正久であったというのだ。

しかも、「早稲田の文学部の学生で、信仰を棄てたものが、植村門下に幾人もいた。私もその一人であった」と棄教をさりげなく明かしている。というのも、「清新な異国情調に若き心が惹かれてキリスト教に帰依したのであったが、若き心であるが故に、固定した信仰に安住してはいられなかった」と弁明するのだ。白鳥らにとって「麻疹」のようなものだったと言うのだろうか。
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