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2018年02月11日19:13

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正宗白鳥「文壇的自叙伝」の文学者と人生観

正宗白鳥は「文壇的自叙伝」(『内村鑑三・我が生涯と文学』講談社文芸文庫)で、中央公論増刊に短篇「微光」を執筆した時のことを、「この原稿を読んだ滝田(樗陰)君は、直ちに俥を飛ばして私を訪問して、唾を飛ばしながら激賞したので、私も安心したのであった。作家にかゝる幸福を与えた編輯者は古来滝田樗陰一人であったと云っていゝ」と回顧している。思いをこめて、「伯牙琴を鼓し鍾子期これを聴く、と云った趣があったので、真の伯牙でも、贋の伯牙でも、芸術的悦楽を感じさゝれたのであった」と言うのだ。

白鳥は「明治以後の文学者の人生観と云ったようなものでは、『妄想(もうぞう)』に現されている森鷗外の感想に最も共鳴を感じている。それで、十余年来折に触れては、あの小篇を読み返している」と言うのであるが、鷗外の「妄想」のどこに共鳴したのであろうか。

「いかにして人は己を知ることを得べきか。省察を以てしては決して能はざらん。されど行為を以てしては或は能くせむ。汝の義務を果さんと試みよ。やがて汝の価値を知らむ。汝の義務とは何ぞ。日の要求なり」というゲーテの詞(ことば)をあげて、鷗外は「日の要求を義務として、それを果して行く。これは丁度現在の事実を蔑(ないがしろ)にする反対である。自分はどうしてそう云う境地に身を置くことが出来ないだろう」と述懐し、「死を恐れもせず、死にあこがれもせずに、自分は人生の下り坂を下って行く」と言うのである。

さらに、「冷澹には見ていたが、自分は辻に立っていて、度々帽を脱いだ。昔の人にも今の人にも、敬意を表すべき人が大勢あったのである。
帽は脱いだが、辻を離れてどの人かの跡に附いて行こうとは思わなかった。多くの師には逢ったが、一人の主には逢わなかった」とするのであるが、あるいは白秋も同じ態度であったのかも知れない。キリスト者の内村鑑三、植村正久や坪内逍遥、田山花袋など何人かの文壇の大家には帽子を脱いだが、跡を付いては行かなかったということか。

「自己の主観に支配された勝手な産物」を書き続けて、大磯の田舎で老いを迎えた白秋は、死についても「いかに想像力を恣まゝにしても、人間は自分が直接に見聞したものを材料として空想以外には出られないのだ。……地獄も極楽も自分で行って見なければ、実景が分るものじゃない」と見切っていたのであろうか。
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