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2018年02月06日15:44

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心酔と冷眼のはざまー正宗白鳥の評伝「内村鑑三」の真骨頂

若松英輔『内村鑑三ー悲しみの使徒』に、「邂逅に始まり、その存在に心酔し、キリスト教に開眼し、そしてある時期それから離れ、ふたたびその『師』ともいうべき者の声に帰っていこうとする精神の旅路が、じつにいきいきと記されていて、白鳥の代表作の一つでもある」と評されている、正宗白鳥の「内村鑑三」「内村鑑三雑感」(『内村鑑三・我が生涯と文学』講談社文芸文庫)を読んだ。

正宗白鳥の故郷・備前市穂浪を訪ねたことはない。白鳥が1年半ほど学んだ閑谷学校(閑谷黌)は、高校時代に同じ下宿にいた友人に案内されて見学したことがあり、建物の様子がぼんやりと記憶に残っているが、瀬戸内に臨む町の穏やかな趣きや人情は、何処もおおむね似通っているのではなかろうか。白鳥の「内村鑑三」を読みながら、まずはそんなことを思った。

書き出しから内村鑑三を「我執の人」と手厳しい。故郷にあって白鳥は『流竄録(りゅうざんろく)』や『何故に大文学は出ざる乎』『如何にして大文学を得ん乎』などに心を刺激され、さらに『基督信徒の慰め』『求安録』に魅せられたと、17歳の頃を回顧した末に、「作者自身それによって徹底的に慰められたり、安心を得たりしていたのではなかったのではないか。慰められたつもり、安心を得たつもりであったゞけのように、私には思われる」として、「我執の人、内村鑑三は最後までそうではなかったか」と、驚くほど冷徹に断ずるのである。

上京した白鳥がいよいよ内村鑑三の心酔者になったのは、基督教夏季学校に出席して、内村鑑三の風貌に接し、連続講演「カーライル」を聴いた頃からである。爾来、「二十歳前後の数年間、内村の筆に成る者はすべて熟読し、その講演は聴き得られる限り聴いた」「彼によって刺激され、彼によって智慧をつけられ、彼によって心の平和を得る道を見つけんとした」というほど魅了されたのである。

内村鑑三の「幾つかの、文学的、宗教的感想録には、お極りの坊主臭さがなく、野性の活躍があり、あの時代の私の心に喰い入るものを持っていた。私を心酔させた。私に『如何に生くべきか』を示唆したとも云えるのである」と告白したうえで、しかし「私が彼の示唆した道に突進することが出来なかった」と回顧している。白鳥の述懐するように、「真の人生はかくの如くして進んで行く」のかもしれない。

万朝報を辞めて創刊した内村鑑三の個人誌「東京独立雑誌」が廃刊になる頃から、白鳥は「急速に内村に対する敬慕の感が衰え、その著書を読まず、その講演を聴かなくなった」ばかりか、内村の部下が離反した「所謂『角筈騒動』を機縁に」、白鳥は「内村鑑三先生に離別を告げた」と言うのである。

その後の内村の活動・言説などを検証するなかで、白鳥の冷眼は容赦なく、内村鑑三は「ファシズムの‘傾向があった」とも断罪しているのだが、委細は省く。

晩年の内村は、「自分が人の教師であるが故に、死に到るまでの道を知り尽していると思い、誰一人これを以って慰めてくれる者なきを思うて、本当に人生の情なきを感じた」と、日記に書きとめている。白鳥の言うとおり、確かに「人間は誰しも自分の経過しない事は分らない。死に到る道は、死に到ってから分るので、どんな大先生でも予め分っている訳ではない」のである。

とすれば、「人生の教師としての内村鑑三先生も、古稀の歳まで、こういう平凡な真理に気づかなかったのであるか」と冷徹な眼を向けながらも、白鳥は返って「こういう所を読んで、この先輩に対して新たな親しみを覚えるようになったのである。預言者としてでもなく、先覚者としてでもなく、凡人内村として親しみを覚えるようになったのである」と、「人間としての内村鑑三」を浮き彫りにした「内村鑑三雑感」を締めくくっている。

田山花袋が「熱心に唱導した文学観の心酔者」で「『有りのまゝ』派の一員であった」はずの白鳥は、一方で「自分を没却して他人の事ばかり写すのは詰まらないじゃないかと、私は窃かに疑っていた」と、「文壇的自叙伝」に明かしている。「私の作品は、自己の主観に支配された勝手な産物であった」と言うのである。まさに評伝「内村鑑三」も例外ではない。
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