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2018年02月01日15:06

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若松英輔『内村鑑三ー悲しみの使徒』の落穂拾い

毎年、「文化の日」に開催される「南原繁シンポジウム」(南原繁研究会主催)に、かれこれ10年ほど友人の誘いもあって参加し、さまざまな角度からの南原繁研究を拝聴してきた。その南原繁が門下となり、深い影響を受けた内村鑑三について、確かな認識を持ちたいと、若松英輔『内村鑑三ー悲しみの使徒』を手にした。

案の定と言うべきか、「霊性」とか「再臨」「贖い」などの術語が出てくると、理解の及ばないというか、如何ともしがたい世界になってしまうのは否めない。南原繁について具体的な言及はない。どちらかと言えば伝道者、あるいは伝道にかかわる弟子たちとの「軋轢」「訣別」に多くの筆がさかれているように思える。以下の記述は私的な“落穂拾い”のたぐいにすぎない。

南原繁にとって内村鑑三は「信仰の人」のみならず、「信頼の人」「慈愛の人」「同情の人」であった。妻を亡くし二人の幼児を抱えて、南原は「人生の険路に行き悩んで恩師を訪れたことがある。人間として様々の苦難をつぶさに嘗められた恩師が心からなる同情をもって慰められた」(「内村鑑三先生」『南原繁著作集』第6巻)と回想している。そこに師との「軋轢」も「訣別」もみられない。

正宗白鳥や有島武郎、小山内薫など内村鑑三に魅せられた文学者・芸術家も少なくない。晩年の白鳥が、内村との邂逅と心酔に始まる「精神の旅路」を辿った評伝『内村鑑三』は、あるいは必読の書かもしれない。若松は「大正文学の潮流に決定的な影響を与えた雑誌『白樺』を中心で支えた人々の多くが、ある時期、内村に魅せられ、そして離れていることは注目してよい」という。有島武郎は「棄教」のあと参加しているのだが、「なかでももっともよく知られているのは志賀直哉との関係だろう」といい、「武者小路実篤、長与善郎、さらに柳宗悦もまた例外ではなかった」とは知らなかった。

志賀直哉は「私が影響を受けた人々を數へるとすれば師としては内村鑑三先生、友としては武者小路実篤、身内では私が二十四歳の時、八十歳で亡くなった祖父志賀直道を挙げるのが一番気持にぴつたりする」(「内村鑑三先生の憶ひ出」『回想の内村鑑三』)として、内村鑑三のもとを去るまでに受けた影響の大きさ、折にふれての師の振る舞いを回顧している。志賀直哉、武者小路実篤と言えば、もの思う頃、貪るように読んだ作家であるだけに、わが無知を恥じるほかない。

ところで、のちに『大菩薩峠』の作者となった中里介山も内村鑑三に近づき離れていった作家の一人であろうか。麻布慈育小学校で教鞭を執るようになったのは、内村鑑三の紹介であったとされる。その頃、中里介山は幸徳秋水、堺利彦らの平民社の非戦論に熱中したが、ほどなく「社会主義に趣きし動機は根底に於て誤ま」っていたと感じて、平民社グループから離別し、内村鑑三が主宰する『新希望』に「予が懺悔」という一文を寄せている。

そこには「……狂する許り苦悶を初めたり。余はこの苦痛に堪えず。馳せて角筈に内村先生を訪い切に先生の教えを求む、先生余が過去の非礼を許し余が為に懇に諭して云わるる様。……筆を執る事あらば神と人類との為。敢て自己の小不平の為に心を煩わさざるの道に精進せん」とある。はたしてその後の二人の接触は如何なるものであったか。いささかなりとも知る手がかりはないのだろうか。

中里介山は、明治39年5月刊の『今人古人』(「本郷会堂と角筈櫟林」)において、牧師・海老名弾正と対比しながら、内村鑑三について、「吾人は非戦論を唱うる内村に於て益々彼が立場を明白にせる宗教家的勇気に服す。宗教的戦士らしき態度に於て内村は少なくとも古今に絶す」と称賛し、昭和9年に「キリスト教会では植村正久、内村鑑三あたりの先生とは親しく座談もし、数回教えも受けた」(「生前身後の事」『隣人之友』)と回想しているにとどまる。中里介山の日記は未公開であり、書簡は集められていないのが惜しまれてならない。
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