下記は、2018.1.25 付の産経ニュース【竹島を考える】です。
記
今年は、清朝の「戊戌(ぼじゅつ)変法」が起こって120年になる。戊戌変法は、日清戦争に敗れた清朝が1898年、日本の明治維新に倣って政治改革を断行し、立憲君主制の導入を図ったものだが、“維新”は100日で失敗。清朝はその後、辛亥(しんがい)革命で倒され、1912年には中華民国が成立している。だが中華民国の国民党も、1949年に建国した中華人民共和国に追われて台湾に走った。
中国の増長、朝鮮半島の妄動の責任は日本にも
明治維新は、清朝の戊戌変法だけでなく、朝鮮の「甲申(こうしん)政変」のモデルとされ、ベトナムの「東遊運動」にも大きな影響を与えたが、いずれも“維新”は実現できなかった。
今日、日本は中華人民共和国の膨張を前にして、護憲か改憲か、憲法論議が百家争鳴している。一方、国政を預かる国会議員らは離合集散を繰り返し、国政選挙のたびに新しい政党が誕生しては消えている。
折しも北朝鮮では、金正恩(キム・ジョンウン)体制を維持するための核開発とミサイル発射実験を行い、軍事的緊張が高まっている。韓国は、その間も慰安婦問題や徴用工問題を歴史問題とし、相変わらず日本に謝罪と反省を求めては、国際社会を舞台に日本批判を続けている。
だが、中国が増長し、韓国と北朝鮮が妄動する原因の一端は、日本にもある。
尖閣奪取の時を眈々と狙っていた中国
中国が「核心的利益」と称して尖閣諸島周辺や南沙諸島と西沙諸島に侵入したのは、民主党政権時代の拙速な対応に起因するからだ。
その発端は2010年9月7日、中国漁船が故意に日本の海上保安庁の巡視船に追突し、同庁が中国漁船の船長を公務執行妨害で逮捕した事件にある。
尖閣諸島の問題は、沖縄返還が決まった1971年、中国と台湾がその領有権を主張したことから始まる。その後、中国政府は1992年、「領海法」を定めて尖閣諸島を中国領としていた。中国としては、虎視眈々(たんたん)と尖閣諸島奪取の時を狙っていたのである。
船長が逮捕されると、中国政府は報復措置としてレアアースの輸出規制を行い、軍事区域で写真撮影をした建設会社の日本人社員4人を拘束した。民主党政権は、これに船長の釈放で応じたが、やがて中国は南沙諸島に人工島を建設し、それを「核心的利益」とした。
中国がモデルとしたのは韓国の竹島侵奪史
尖閣問題が浮上し、中国側がモデルとしたのは、韓国による竹島侵奪の歴史である。それは1954年、竹島に韓国の民間人が上陸し、その後、同国の海洋警備隊が駐屯して、不法占拠を続ける歴史である。ただ竹島問題に関しては、民主党政権ばかりを責められない。その解決を怠った歴代の自民党政権にも責任があるからだ。
その自民党政権は今、改憲を目指している。だが改憲すれば竹島が返還され、中国の膨張主義を阻止できるのだろうか。
中国の公船は尖閣諸島周辺に出没して、領海を侵犯している。中国が強硬なのは、島根県が2005年3月に「竹島の日」条例を制定したその2カ月後、ロシアが北方領土問題を「第二次大戦の結果」と公言し、中露の協調体制ができているからだ。これは、未解決の竹島問題が東アジアのパワーバランスにも影響を与えているということである。
戦略的な対応ができぬ日本政府
島根県が「竹島の日」条例を制定しようとした際、それを阻止しようとしたのは日本政府である。一地方自治体の島根県が、政府に抗(あらが)って竹島の「領土権確立」を求めたのは、日本の国家主権が侵され続けているからである。
その島根県は、今も政府に陳情して竹島問題の解決を求めている。日本には、韓国の「東北アジア歴史財団」のような実戦的な機関がなく、戦略的な対応ができないからだ。
その弊害は北方領土問題にも現れている。日本では近年、北方領土での経済協力を通じて、それを領土返還に繋(つな)げようとしている。
だが、歴史の教訓から学んでおくことがある。それは北方領土が日本の領土となる1850年代の国際情勢だ。
ロシアが再び活路を求めた極東
当時、帝政ロシアは1853年から始まるクリミア戦争で劣勢に立たされていた。そこで活路を極東に見いだし、日本と結んだのが1855年の「下田条約」である。それで得撫(うるっぷ)島と択捉(えとろふ)島の間に国境線を画定し、清朝とは「●(=王へんに愛)琿(あいぐん)条約」と「北京条約」を締結して、沿海州を獲得した。
ロシアの南下政策はそれを機に本格化。1904年の日露戦争は、その帰結である。帝政ロシアはその後、旧ソ連によって倒されるが、南下政策は、北朝鮮による1950年の韓国侵攻に繋がっている。歴史は繰り返す。
2014年、クリミア半島に侵攻したロシアは、欧米諸国から経済制裁を受けた。これは160年ほど前、クリミア戦争の際に、オスマントルコと英仏に南下を阻まれたのと似た状況である。ロシアが再び活路を求めた先は極東だった。
拙速な改憲は日本批判の口実を与えるだけ
日本政府は、北方領土での経済協力に期待しているようだが、それは危うい。島根県の「竹島の日」条例を機に中韓が反発すると、ロシアは北方領土を返還する意思がないことを明言した。当時のメドベージェフ大統領は2008年10月、韓国の李明博大統領と極東の共同開発に同意して、2010年には大統領として初めて国後(くなしり)島に上陸している。
さらに昨年12月20日、韓国とロシアは北方領土問題と竹島問題で共闘するための国際会議をサハリンで開催し、新たな潮流が生まれている。
日本は国家主権が侵され続ける状況の中で、改憲か護憲かの憲法論議に余念がない。だが、中国が尖閣諸島周辺で挑発行為を続けるのは、韓国の妄動を奇貨とするからである。韓国流の歴史認識が蔓延(まんえん)する現状で改憲を急ぐことは、「軍国主義の復活」として日本批判の口実を与えるだけである。
それはロシアにとっても同じで、韓国流の歴史認識では、北方領土も日露戦争の過程で日本が侵奪したことになるからだ。この状況で、北方領土の経済協力に前のめりになることは、賢明ではない。外交には手順がある。
清朝の失敗に似た現行の憲法論議
その点で、現行の憲法論議を見ていると、理念だけで戊戌変法を実現させようとして失敗した清朝の改革派とも近いものを感じる。戊戌変法は、明治維新をモデルとしたが、明治維新は、地方分権的な封建制から中央集権的な国家体制に変換する自前の経験が伴っていた。
だが、憲法論議をする国会議員の諸先生には、その経験がない。中でもマニフェストを声高に掲げ、理論偏重の欠陥を露呈したのは民主党政権である。民主党政権の主流は、松下政経塾出身者が占めていたが、松下政経塾は明治維新の志士とは似て非なるものである。明治維新の志士たちは脱藩して日本を考えたが、松下政経塾が誕生して以後、流行となった政治塾では、初めから国政の場に出ようとしているからだ。
経営の神様、松下幸之助翁は、自ら経験した丁稚(でっち)時代の苦労を塾生から奪い、安易に国会議員となる道筋を作ってしまった。それは維新ではなく、江戸幕府に仕官するのと同じである。
竹島問題の解決後でも遅くない憲法論議
清朝の戊戌変法も朝鮮の甲申政変も成功しなかったのは、法律を整え、制度を造ることが改革だと思い込んだからである。
中国の台頭、北朝鮮による核開発やミサイル実験を機に、日本では日本国憲法を「与えられた憲法だ」と声高に叫び、改憲を急いでいる。だが「護憲だ」「改憲だ」と騒ぐ国会も、敗戦後に与えられた議会民主主義であることを忘れてはならない。
改憲、護憲の憲法論議は、竹島問題を解決して、自前の議会民主主義を確立させた後からでも遅くない。短兵急な改憲は、日本封じ込めのための日本国憲法の欺瞞(ぎまん)を明らかにしないまま、その痕跡を永遠に葬ってしまう恐れがある。
http://www.sankei.com/west/news/180125/wst1801250003-n1.html
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