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2018年01月22日11:36

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悲劇の「西郷どん」と対照的なセレブ子孫たち…大臣、女優、エース球児まで

 下記は、2018.1.22 付の ダイヤモンド・オンライン に寄稿した、森岡 浩 氏の記事です。

                         記

西郷家のルーツは藤原氏?『西郷どん』をもっと楽しむトリビア

 今年は明治維新からちょうど150年目。NHKの大河ドラマ『西郷どん』の主人公も維新の立役者の1人、西郷隆盛だ。西郷隆盛は薩摩藩の下級武士の生まれで、その周辺の人物が薩摩藩における維新回天の中心人物となり、さらに明治新政府の要職に就いて、近代日本の初期の舵取りにあたった。

 今回は、今話題の西郷隆盛のルーツに関する興味深い薀蓄をお届けしよう。

 西郷家には、肥後の名家・菊池氏の一族の末裔であるという伝承がある。菊地氏は藤原氏の一族で、南北朝時代には一貫して九州南朝方の中心として活躍した。この菊池氏の系図を見ると、祖である則隆の子の政隆が西郷氏を名乗っており、その子孫ということになる。隆盛自身もこのことは知っていたようで、奄美大島に流されていたときには「菊池源吾」という変名を名乗っていた。

 しかし「西郷」はべつに珍しい名字ではない。そもそも、「郷」とは古代律令制で郡の下に置かれた行政区画のこと。平安時代になって荘園制が発達し、さらに住民が自治をする「村」が生まれたことで、「〜郷」は次第に「〜荘」や「〜村」に置き換わっていった。

 それでも、長崎県の東彼杵郡・西彼杵郡や五島列島などでは、今でも市町村の下の行政地名として字名に「郷」が使われている。

 つまり、「西郷」とは西の方にある郷(集落)という意味で、各地に様々なルーツを持つ西郷氏がいる。西郷家も、元禄年間に没した九兵衛以前のことはわかっておらず、菊地氏一族の西郷氏が先祖であるかどうかはわからない。

 ところで、鹿児島県は錦江湾を挟んで、下に向いたUの字のような形をしている。薩摩半島・大隅半島はともに南北に長く、川の多くは東西に流れている。そのため、集落は東西に伸びていることが多く、郷の南北よりも郷の東西に住むことが多かったことから、鹿児島県では「東郷」と「西郷」という名字が多い。

 なお、薩摩藩には、こうした一般的な行政単位の「郷」とは別に独特の「郷」が存在した。江戸時代、各藩は城下町に藩士を集め、藩士は家禄として藩庁から米を支給されるという中央集権制度だった。しかし、薩摩藩では各地に半農半武士が居住し、有事の際には城下に駆け付けるという独特の制度を持っていた。

 こうした各地の駐屯地を、藩主が住む内城に対して外城と呼び、江戸時代中期以降は「郷」と呼んだ。大河ドラマで使われていた「郷中」の「郷」はこうした郷のことで、中世に使われていた郷とは違い藩の政治組織としての単位である。

悲劇の西郷どんと対照的に末裔たちは大活躍していた!

 西郷隆盛は、西南戦争の首領に祭り上げられ、明治10年城山で自刃した。したがって、明治以降西郷一族は政治の表舞台では活躍していないと思っている人も多いが、実はそうではない。

 確かに、西南戦争で隆盛や弟の小兵衛は死んだが、一族がすべて滅んだわけではない。西郷家の子孫は現代まで続いており、様々なジャンルで活躍した人が出ている。

 最も有名なのは隆盛の弟・従道だろう。従道は西南戦争では薩摩側につかず、新政府の陸軍卿代行として留守政府を守った。その後も、海軍大臣、内務大臣、枢密顧問官を歴任し、明治31年には海軍軍人として初めて元帥となった。

 この間、28年には侯爵となっている。従道の孫・従吾は第二次世界大戦で大本営参謀をつとめたほか、西郷家の子孫として話題になっている『西郷どん』の西郷桜子役の女優・西郷真悠子も従道の玄孫にあたる。

 では、隆盛の末裔はどうなっているだろうか。隆盛の長男・寅太郎は父が自刃した際には11歳であった。以後、一族は薩摩でひっそりと暮らしていたが、明治17年に隆盛の親友・吉井友実や勝海舟らの働きかけで、ドイツのポツダム陸軍士官学校に留学。

 以後、13年間ドイツで学び、帰国後は陸軍少尉に任官。そして、35年父の功績が認められて侯爵が授けられ、西郷家は2つの侯爵家を出すという日本屈指の名家となった。

 寅太郎の三男の吉之助は、貴族院議員を経て、戦後参議院議員となり、第二次佐藤内閣では法務大臣に就任、当時は隆盛の孫として話題になった。

打撃の神様・川上哲治に敗れ甲子園を逃した隆盛の孫

 幕末、隆盛は藩主島津斉彬の命で京都で政治活動をしていたが、斉彬の急死と安政の大獄で絶望し、僧月照とともに鹿児島湾で投身自殺を図るものの、助けられて蘇生する。このあと、藩によってしばらく奄美大島に流れさていた。

 このとき、奄美大島北部の竜郷村の豪農の娘愛加那と結ばれ、菊次郎・菊子という子どもをもうけている。隆盛は3年で鹿児島に戻り、やがて2人の子どもも西郷家に引き取られた。

 菊次郎は西南戦争に従軍、延岡の和田峠で右足に銃弾を受けたことから、膝から下を切断した。このため同地からの撤退では取り残され、新政府にいた伯父の従道のもとに投降した。戦後は米国留学の経験もあったことから外務省に入って活躍、のちに6年間にわたって京都市長も務めている。

 菊次郎の六男準は鹿児島二中(甲南高校)野球部のエースで4番だった。昭和9年夏には南九州大会準決勝に進み、熊本工と対戦して惜敗、甲子園出場を逃した。鹿児島二中に勝った熊本工は甲子園でも準優勝、このチームで2年生ながらライトの守備についていたのが、後の打撃の神様、川上哲治である。

 準は立教大学でも東京六大学野球で投打に活躍した。また、菊次郎の四男隆泰の子隆文は地元鹿児島で日置南洲窯代表を務める陶芸家である。

(氏姓研究家 森岡 浩)

 https://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/%e6%82%b2%e5%8a%87%e3%81%ae%e3%80%8c%e8%a5%bf%e9%83%b7%e3%81%a9%e3%82%93%e3%80%8d%e3%81%a8%e5%af%be%e7%85%a7%e7%9a%84%e3%81%aa%e3%82%bb%e3%83%ac%e3%83%96%e5%ad%90%e5%ad%ab%e3%81%9f%e3%81%a1%e2%80%a6%e5%a4%a7%e8%87%a3%e3%80%81%e5%a5%b3%e5%84%aa%e3%80%81%e3%82%a8%e3%83%bc%e3%82%b9%e7%90%83%e5%85%90%e3%81%be%e3%81%a7/ar-AAuYY78#page=2
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