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2018年01月03日15:31

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平成30年に思うこと

平成30年1月1日。
くしくも読売新聞にSNSでの人間関係が煩わしくなったという人生相談の記事が掲載される。
TBSラジオの文科系トーク番組では自己愛、自己主義偏重というか自分に投資することが当然のように行われている旨の発言があった。
さらに昨年末TBSラジオでは相模原の障害者施設殺傷事件の特番を放送。
これも同様に自分の判断で自分と他人に線引きを行う社会を問うものであった。

私はこれらが今年というか今後、いや既にテーマとなっていると思っている。
「自己愛」
この言葉が世間を捉えていると考える。
社会が自己愛偏重と化している。
大げさではなく事実だと思う。

これまで日本の戦後史はベビーブームと共に高度経済成長期と共に歩んできた。
子供が多いし皆それほど裕福ではないから、家族や近所の皆で、昔風に言えば戦前戦後の長屋文化が色濃く残っていたのが、経済成長と共に豊かさが蔓延しニュータウン化の一途を辿り、各家庭化の要因となった。
経済成長と共に女性社会参画、男女平等、ひらたく言えば女性の社会進出は今や当然である。
子供に至っても家庭が、共働きが標準になれば家で面倒をみる人間がおらず保育園や学童施設に預けることが今度は反対に標準化された。
親と同居することもなくなり、親は親で老人ホームに入所する。
簡単に書いただけでも社会が自然の流れで各家庭化に流され、各家庭化の先には自分偏重、自分重視、自己愛というものだけが残された。

自己偏重のきざしは昨日のラジオの話だとすでに10年以上前から起きているらしい。
ランニングやフィットネスといったビジネスが成功しているのが分かりやすい例だと思われる。
自分に投資するビジネスがヒットしているのだ。
海外のスポーツ衣料メーカーはそれが分かっているのから、自己偏重に合わせてヒットを量産しているし、更に売れている。
ランニングやフィットネスがただの時代の流行ではなく、しっかりした基盤の元に出来上がった文化なのである。

自己偏重、自己愛は言い方を変えれば自分とそれ以外を分けた考え方である。
いかに自分が世界の中心で、自分が主人公で、自分以外はどうでもいいという風に見受けられる。
プライベート重視と言えば聞こえがいいが、全てが全て自己判断。自己都合。自分が正しい。
自分と他の世界をシャットアウトしている訳である。
自分が良ければそれでいい。
非常に短絡的で幼稚で社会性もなく生産性もない考え方であり行為である。
他人の指摘を受け入れられないのだから仕方がない。

SNSのひとつLINEがヒットした理由に自己偏重が挙げられる。
自分と自分の仲が良い人だけのコミュニティを作れるツールだからである。
現在はLINEがライフライン化してしまい社会ツールになってしまった事が反対に煩わしさの原因となっている。
要するに利用者が増えすぎたのだ。
仲の良かった人達だけでは済まされなくなってしまった。
メッセージの発信に対して読んだ、読まないの問題。
グループに入れる、入れない、入れてもらえない問題。
現実社会以上に人間関係が飽和している状態である。
本来、利便性を高めるメッセージアプリが人間関係を煮込ませて濃くしてしまっており、一度足を踏み込めば逃げられない本末転倒な事が起きている。
これはめんどくさい人間関係に巻き込まれたくないからやらないという訳にはいかない。
なんせ社会ツール化してしまっているからだ。

自己愛、自己偏重の考えはさもすると自分勝手、自分ルール。
社会に通用しない身勝手な考えを他人に強要するものである。
ゴミ捨て、路上駐車、昨年ニュースになったあおり運転もその一つであろう。
自分が気に入らないから他人を責める。
本当に意味がわからない行為だ。
迷惑極まりなく死んだ人が可哀想できっと頭がおかしい犯人だから仕方がない、で済ませてはいけないと思う。
なぜなら紐解けば事件の概要がつかめるからだ。
当然、自己偏重、自己愛が根底にある事件である。
頭がおかしいのではなく、自分のルールに従い、自分の運転する車を気持ち良く運転させない邪魔をした車がいた、気に入らないからあおって追い越して恫喝した。
分かりやすい理論である。
何の不思議もない。
事件の大きい小さいはあれど、この風潮は誰にでも見受けられるし社会全体がそういう風潮なのから、いつ自分が被害者になっても加害者になっても不思議ではない。
既にそういう社会になっていると認識しなければならないのだ。

相模原の障害者施設殺傷事件では記者が犯人にインタビューを行っている。
なぜ殺したのかと?
答えは単純で、障害者は人間ではないからだ。
では人間の定義とは何かといえば、生産性があるか、というものであった。
他にも基準があるがここでは省く。
ここで注目すべきなのは、犯人は自分で殺す対象と殺さない対象を仕分けた点である。
障害者は人間ではないから殺していいというざっくりした定義だ。
良識ある人間であれば、理解できないであろう。
そもそも良識とは何か?という問題も出てくるがこれは長くなるので割愛する。
答えが出る話でもないので。
私自身が危険だと思うのが、障害者だから殺していいという理屈だ。
自分と障害者の間に明確な違いを設けている。
これは、自分が障害者ではないという反対の証明でもある。
ただ待ってほしい。
我々はいつ自分が障害者になるか分からない要素も格納している事を忘れてはいけない。
犯人はこの考えが欠如している。
病気や怪我で障害者になることは十分考えられる。
そうなった時、犯人は自らも殺害の対象者となりうる訳である。
理論が破綻している事は言うまでもない。
仮に犯人が、自分が障害者になった時、殺害される対象で殺されても仕方ないし、むしろ死ぬというのであれば極めて理路整然しており明確な意思があり、私の方が浅はかであったと思うであろう。

自己愛、自己偏重が蔓延している社会はきっと崩壊する。
良い社会ではない。
色々な人がいて、色々な生き方が出来て、それを受け入れてもらえる社会でないと人口だけが飽和した社会は未来がない。
おおらかな気持ちがないといけないと思う。
自分にゆとりではなく、他人にゆとりを持てる社会を作らないといけないと思う。
自分ばっかりで、他者とへだたりを作るばかりでは争いが絶えない。
結局、自分自身のルールと他人のルールは違うのだからといって、
自分のルールを他人に押し付けていい訳ももちろんないのだが、
他人を理解出来ない、他人が理解してくれないから壁を作って遮断してしまっては
相手を理解するという事自体を拒絶しており、相互理解なんてできやしない。
昨今、相互理解なんてする必要がないという風潮もある。
大国が大量破壊兵器がある疑いで一方的に武力攻撃をしかけ、その実、その市民国民に死傷者が出て難民と化す。
それも疑いをかけた人たちは、安全に守られた所で自分の利益や主張を行い、危険な行為を行うのは別の人間だ。
その場に行って武力行使をするならまだましで、安全な大国にいてリモコンのボタンひとつでミサイルを落とすまるでゲーム感覚の武力行使を行うこともあるという。
自分本位の究極がこういう形で現れると思う。
成熟しきった社会や文明の末路は、色々な作家が描く最悪な未来では、自己崩壊している。
レミングスという動物がいるが、増えすぎたコミュニティを作ると自殺してコミュニティの数を調整する本能がある。
知らず知らずに人間もその本能に従って社会を動かしているのかも知れない。

私は自分本位、自分偏重、自己愛に危機感を募らせる。
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