7. 他人を裁くことは誰にもできない
完全に調和のとれた存在になるために、魂はそれ自身のエネルギー・バランスを整えなくてはならない。魂は、それ自身がつくった原因の結果を体験しなくてはならない。
交流中のパーソナリティー同士は、共に癒しを求めている魂である。魂間の交流が癒しにつながるかどうかは、それにかかわっているパーソナリティーが、パーソナリティーの境界を超えて、魂同士の交流に目をやることができるかどうかにかかっている。その認識は自動的に思いやりを産出する。
私たちは、それぞれの交流のなかで何が癒されようとしているのか、つまり、どんなカルマ的負債が支払われようとしているのかを知ることはできない。よって、そもそも、自分たちが見たことを裁いたりはすることができない。
たとえば、冬の寒空の下、側溝のなかで眠り込んでいる人間を見ても、その魂がそれで何を完結させようとしているのか、私たちにはわからない。その魂はもしかしたら。別の人生のなかで何らかの残虐な行為に及んでいて、そのために、同じ力学を全く別の観点から(例えば浮浪者としての観点から)体験することを選択しているのかもしれない。しかし私たちには、その真偽はわからない。
私たちがその人間の境遇に同情することは、妥当なことである。しかしながら、それを不公平なこととして認識することは妥当ではない。実際、それは不公平なことではないからだ。
身勝手で意地悪な行為に及ぶパーソナリティーも少なからずいるが、私たちはそんな人々を見たときにも、彼らがそうしている理由をけっして完全に知ることができない。その理由は見えないところに隠れているからだ。ただし、だからといって、彼らのネガティブな行為を受け入れるべきである、というわけでけっしてない。私たちはただ、それを裁くことができないだけである。
議論やケンカの仲裁を余儀なくされたときにも、当事者たちを裁いたりするべきではない。
一つだけ確かなことは、暴力行為を行っている人間は、そのとき自分がひどく傷ついている、ということである。なぜならば、健康でバランスのとれた魂には、他人を傷つける能力がないからだ。
私たちは裁いたとき、ネガティブなカルマを創造する。ほかの魂について、「彼女は価値がある」あるいは「彼は価値がない」などと言ったら、そのとき私たちはネガティブなカルマを創造することになる。また、何らかの行動について、「これは正しい」「あれは間違っている」などと言ったときにも、私たちはネガティブなカルマを創造する。
私はいま、だれがどんなことをしても、ただ見逃すことだ、などとは言っていない。
ただし、もし私たちが、怒りや正義感、あるいは犠牲者意識などによって動機づけられた行動に出たとしたら、それは、けっして妥当なことではない。それらのフィーリングは、私たちが自分の行動と他人を比較して行う裁きの結果にほかならない。その裁きを通じて、私たちは自分を他人よりもすぐれた人間として見たがっている。
もしもそれらのフィーリングにしたがって行動してしまったら、そのとき私たちは、自分の魂のカルマ的負債を増やすのみならず、それらのフィーリングを通じて学ぶべきことを、し損なうことになうことにもなってしまう。
ログインしてコメントを確認・投稿する