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2017年08月17日10:14

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『孟子』巻第七離婁章句上 六十二節

                          六十二節
孟子は言った。
「離婁のような優れた目や、名工で知られた公輸子のような優れた腕があっても、コンパスや定規が無ければ正確な丸や方形を描くことはできない。師曠のような聡明な耳があっても、陰・陽それぞれ六つの調子笛が無ければ、五音の音階を正しくすることはできない。それと同じことで、堯や舜のように道を知っている人でも、実際に仁政を施さなかったら、天下を平穏に治める事は出来ないのだ。ところが今の時代、実際に人を愛する心を持っている諸侯や、そのような評判が聞こえてくる諸侯はいるのだが、人民はいっこうにその恩恵を被らず、後世の模範となることが出来ない。それは昔の聖王の優れた道を行わないからだ。だから昔から、「善の心があるだけでは、立派な政治は出来ない、法や制度が備わっているだけでは、その実効は上がらない。」と言われている。『詩経』(大雅生民之什仮樂篇)にも、『誤ることなく、忘れることなく、先王の法度に從う。』とある通り、先王の法に従って過ちを犯した者は、いまだかっていないのである。昔の聖人は、其の優れた眼力を使い尽くしたうえで、更にコンパス・定規・水準器・墨縄などを用いたので、方形・円形・水平面・直線を作るのに窮することはなかった。同様に、すぐれた聴力を使い果たしたうえで、六つの調子笛を用いたので、五音の音階を正しく定めるのに窮することはなかった。又心の思いを尽くしたうえで、民の不幸を見るに忍びない心で政治を行ったので、その仁愛はあまねく天下に行き渡ったのである。だから昔から、『高台を造るには、丘陵を利用して造るのがよい、低い所に造るなら、谷川や沢地を利用するのがよい。』と言われているが、政治於いても既にある先王のすぐれた道に因らなければ、智者とは言えないだろう。それだから、真の仁者だけが高い位に在るべきで、不仁の者が高い位に在れば、それはただ害悪を民にまき散らすだけで、君主は道理を以て事を進めず、臣下は法制度を守らず、朝廷では道理が信じられず、職人は基準を信じず、高い位に在る者は道義を犯し、小人は刑罰を犯すようになる。そうなって未だ国が存在しているのは単に運がいいだけである。だから昔から、『城郭が不完全であるとか、武器や甲冑が不足しているというのは、必ずしも国の災いではない。田野が開拓されないとか、財かが集まらないとかいうのも、必ずしも国の害にはならない。』と言われている。国家にとって真の災害とは、上に立つ者に礼が無く、下の者に学問がないということで、そうなれば乱賊の民が現れてきて、国家が亡びるのもそれほど先の事ではない。『詩経』に、『天が周室を覆そうとしている、群臣は何もせず泄泄としていてはいけない。』とあるが、泄泄とは、猶ほだらだらとおしゃべりをしていることだ。君に仕えて義を立てず、その行動には礼がなく、口を開けば先王の道を非難するだけの者、それを沓沓の者と言うのである。それだから昔から、『善行であれば困難であっても、君に実行するように勧めるのが、恭というもので、主君に善言を述べ、邪の道を遠ざけるのが、敬というもので、主君を善も行うことが出来ない、善言も聞き入れることが出来ない駄目なな人物だと見限ってしまう者は、これを賊というのである。』と言われている。」

孟子曰、離婁之明、公輸子之巧、不以規矩、不能成方員。師曠之聰、不以六律、不能正五音。堯舜之道、不以仁政、不能平治天下。今有仁心仁聞、而民不被其澤、不可法於後世者、不行先王之道也。故曰、徒善不足以為政、徒法不能以自行。詩云、不愆不忘、率由舊章。遵先王之法而過者、未之有也。聖人既竭目力焉、繼之以規矩準繩。以為方員平直,不可勝用也。既竭耳力焉、繼之以六律。正五音、不可勝用也。既竭心思焉、繼之以不忍人之政。而仁覆天下矣。故曰、為高必因丘陵、為下必因川澤。為政不因先王之道、可謂智乎。是以惟仁者宜在高位。不仁而在高位、是播其惡於衆也。上無道揆也、下無法守也、朝不信道、工不信度、君子犯義、小人犯刑、國之所存者幸也。故曰、城郭不完、兵甲不多、非國之災也。田野不辟、貨財不聚、非國之害也。上無禮、下無學、賊民興、喪無日矣。詩曰、天之方蹶、無然泄泄。泄泄、猶沓沓也。事君無義、進退無禮、言則非先王之道者、猶沓沓也。故曰、責難於君、謂之恭。陳善閉邪、謂之敬。吾君不能、謂之賊。

孟子曰く、「離婁の明、公輸子の巧も、規矩を以てせざれば、方員を成すこと能わず。師曠の聰も、六律を以てせざれば、五音を正すこと能わず。堯舜の道も、仁政を以てせざれば、天下を平治すること能わず。今、仁心仁聞有りて、而も民其の澤を被らず、後世に法る可からざる者は、先王の道を行わざればなり。故に曰く、『徒善は以て政を為すに足らず、徒法は以て自ら行わるること能わず。』詩に云う、『愆らず忘れず、舊章に率い由る。』先王の法に遵いて過つ者は、未だ之れ有らざるなり。聖人既に目の力を竭くし、之に繼に規矩準繩を以てす。以て方員平直を為すこと、用うるに勝う可からざるなり。既に耳力を竭くし、之に繼ぐに六律を以てす。五音を正すこと、用うるに勝う可からざるなり。既に心思を竭くし、之に繼ぐに人に忍びざるの政をを以てす。而うして仁天下を覆う。故に曰く、『高きを為すには、必ず丘陵に因り、下きを為すには、必ず川澤に因る。』政を為すに、先王の道に因らずんば、智と謂う可けんや。是を以て惟だ仁者のみ宜しく高位に在るべし。不仁にして高位に在るは、是れ其の惡を衆に播するなり。上に道揆無く、下に法守無く、朝は道を信ぜず、工は度を信ぜず、君子は義を犯し、小人は刑を犯して、國の存する所の者は幸いなり。故に曰く、『城郭完からず、兵甲多からざるは、國の災いに非ざるなり。田野辟けず、貨財聚まらざるは、國の害に非ざるなり。』上、禮無く、下、學無ければ、賊民興り、喪ぶること日無けん。詩に曰く、『天の方に蹶(くつがえす)えさんとする、然く泄泄すること無かれ。』泄泄とは、猶ほ沓沓のごときなり。君に事えて義無く、進退禮無く、言えば則ち先王の道を非る者は、猶ほ沓沓のごときなり。故に曰く、『難きを君に責む、之を恭と謂う。善を陳べ邪を閉づる、之を敬と謂う。吾が君能わずとす、之を賊と謂う。』」

<語釈>
○「離婁」、黄帝の時の人、百歩先の小さなものでも見分けることが出来る目を持っていたと言われる伝説の人物。○「公輸子」、趙注:公輸子は魯班、魯の巧人なり。○「規矩」、規はコンパス、矩は定規。○「仁心仁聞」、朱注:「仁心」は人を愛するの心なり、「仁聞」は人を愛するの聲、人に聞こゆる有り(評判のこと)。○「徒善、徒法」、「徒」は朱注に「空」なり、とあり。「徒善」は実質の伴わない形だけの善、「徒法」は形だけの法。○「道揆」、朱注:「揆」は「度」なり、「道揆」は、義理を以て物事を度量して、其の宜しきを制するを謂う。○「詩曰、天之方蹶、無然泄泄」、詩は『詩経』大雅の板篇、「天之方蹶」の解釈は諸説あるが、朱注に従っておく、朱注:「蹶」は顚覆の意、「泄泄」は、怠緩悦従の貌、天、周室を顚覆せんと欲す、羣臣、泄泄然として急ぎ之を救正するを得んとすること無かれ。

<解説>
「離婁の明、公輸子の巧も、規矩を以てせざれば、方員を成すこと能わず。」どんなに才能があっても、それだけで物事を完全にやり遂げることは難しい。物事には必ずそれを助ける手段がある。それを利用して初めて満足のいく仕事が出来るということである。納得のいく論である。しかしそれが政治の面で、手段とするのが先王の道であるとするのは、今の我々には納得できないが、それはこの時代が儒教に基づく尚古主義の時代であるので当然の事であろう。

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