清水栄一「中村天風絶対積極の言葉」より。
生きている限り死んでいない、死んでない限り生きている。
それなら寿命のある限り、勢いよく、生きて生きて生き抜かなくっちゃ。
とにかく生きているのだ。この世に生きている。これは事実であり現実だ。
この世に生れ出るということは、自分の意志で出来るものではない。
・・・・中略・・・・
稲は1粒から660粒の米が出来るという。恐らく地上最大の生産性を誇るものだ。 しかし、人間は、1つの細胞からおよそ60兆の細胞をもった人間になる。
自然は、ひとりの人間をこの地球上に出現させるのに、いろいろと偶然や奇跡の形をとりながら、実は必然の叡智の働きをもって、大変な手続きとコストをかけている。
こうしてひとりの人間が、この地球上に誕生する仕組の見事さに言葉を失うばかりだ。因縁果の法則に貫かれた寸分の隙もない叡智の働きに、私達はただ「何事のおわしますかはしらねども、忝(かたじけ)なさに涙こぼるる」と言うしかない。
いまここに生きて存在している「自分」というものが、目には見えない大きな力に支えられ、育てられ、生かされている掛け替えのない存在だということを、感ぜずにはおられない。
その存在は、私であり、あなたであり、彼であり彼女であり、ひとりひとりがそうなのだ。
生命が尊いということは、そういうことなのだ。
ユダヤの教えに次のような言葉がある。「神は、その人間にとって必要なものすべてを準備し与えてこの世に生まれしめた。しかし人間の欲望があまりにも大きすぎて、神といえども手の施しようがない」と。
神を自然という言葉に置きかえてもいい。その神が,自分を必要とし準備し与えてくれたものこそ、自分にとっては多すぎず少なすぎもせず、余分でもなく不足でもなく、そのまま自分にふさわしい資産ではないか。
寧ろ恵みと考えよう。その埋もれた恵みを一生かかって掘り出し磨き上げ、
100パーセント活かしきって生き抜くことが、人間として活かされ生きている使命でないか。
その恵みの能力をもって、「強く正しく清く尊く」生きることだ。
哲人中村天風は、それを絶対積極の生き方と言った。
尊く生きるとは、他人の喜びをわが喜びとする生き方だ。そこに人間の尊厳がある。使命の完遂とは、人の世に役立つ自己の完成を目指すことだ。
活かされてあるこの生命を、人間の尊厳をもって活き活きと勇ましく生きて生きて生き抜くのだ。
寿命のある限り、ハツラツサッソウ、輝いて生きよう。
「人生に二ページはない」。
ログインしてコメントを確認・投稿する