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2017年03月11日19:49

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国民的大事


 6年前の3月11日から、人生が変わってしまったのは、勿論私ばかりではない。
 とは言っても、直接津波を受けた沿岸部。
 津波被害はなくても、放射能被害を受けている地域。
 首都圏。
 その他の地域。
 その他の地域は、連動した地震被害があったか なかったかによっても違ってくる。

 正式には、地震が連動した、とは言われていない。
 現在の地震学で、そこまで言うのは根拠が薄弱で、因果関係が見つからないから。
 だが、静岡県東部や長野県、そして遠く離れた熊本・大分での地震被害が、東日本大震災と無縁だとは到底思えない。
 しかるなら、ほぼ日本中で、同じように連動する地震にいつ襲われるか、については誰にも分からないし、その被害を最小限にとどめるには、寝ている間に家具に押しつぶされないとか、火の元に注意して火災を発生させない、とか、日常的に飲み水や食べ物を備蓄する、などという次善の策を取るしかない。勿論、揺れた時、海からは逃げる、これは最大限やるべき行動だろう。

 残念だが、1万5千人以上の命を奪い、現時点で2000名以上の行方不明者が出ていても、多くの人は警報を軽んじている。津波警報だけが危険なのではない、その他の気象警報などでも、最も優先されるべきはまず人の生命であるはずだが、3.11以降も自然災害で命を落とす人がいる。そして、少なくとも警報が出ているのだからもっと慎重に行動をしていれば、命までは取られなかった事案は毎年のようにある。

 正直なところ、関西ではやはり、3.11の影響は薄いし、関心もどんどん薄れつつある。それでも、こと食品の安全性に対しては注意深い人が多いとも感じる。おそらく首都圏ではだいぶん事情が違うのだろうが、震災以降の住居は浜松と芦屋だけなので、首都圏のことは良く分からない。

 関西では、南海トラフに関する危機感も薄い。
 これは、仮に大津波が襲ったとしても、大阪湾に入るまでには時間も掛かるし、紀伊水道が狭いので、入ってこれる水の総量を考慮すれば、大阪湾岸では、外海に比べて極端に波高が小さくなるのも一因だろう。
 これは、計算ができない人でも、報道されている・ハザードマップに記載されている、といった情報を見ればある程度分かることだから、関心が薄くても仕方がない。
 日本海側には原発が多数あって、同じような事故が起こる可能性はある。
 けれども、福島第一のような過酷事故でさえ、避難している地域の大きさを考えれば、京都の市街地あたりは、我慢していれば住み続けることは出来るだろう。琵琶湖の水が汚染されれば、という事は想定できるが、おそらく誰もそのような事故は

 「起こらない」
 
 と、思っているのだろう。
 そう考えなければ、日常の生活にあまりにも制約が大きくなり。生き方自体を変えなければならない人が増えすぎてしまう。
 政府の言っていることは、嘘・大本営発表、と心で思っていても、そんな噓にさえどこかに信じてしまう心の弱さは誰にだってあるだろう。


 原発事故があろうがなかろうが、津波によってあまりにも多くの命が奪われてしまったのは事実。なぜ、逃げ切れなかったのか、どうしてこんなことになってしまったのか、には色々対策も出されたが、昨年津波警報が出ていた時、やはり逃げなかった人は多かった。6年も経てばそうなってしまう。

 それ故、自分の行動に責任を持てない子どもは除いて、多くの犠牲者のうちの一部は、自己責任という感じ方もする。逃げられる状況で逃げずに命を落としてしまった人は一定数いるだろう。
 一方で、逃げたが、逃げ切れなかった、という人たちの中で、命を落とした人も大勢いるのは疑いもない事実で、実際にわずかな高さの差だけで命拾いをした人が多数いる。
 もう少しの「何か」があれば、犠牲者はもっと少なくて済んだかも知れない。


 地震当日 まだ、地震で揺れている最中には、

 「コンクリートの瓦礫に押しつぶされれ死ぬ」

 という、想像が何度も頭の中に浮かんだ。
 そうは言っても、耐震構造のビルを信じるしかなかったのが当日の行動だった。
 仮に、外に出たとして、「落ちてくる物に当たって死ぬ」という可能性もあったのだからじっとしていたのは正解だったと思っている。
 その後も、土地勘のある東京にいたことは幸いだった。その日のうちに脱出できたのだから。これが千葉とか横浜だったら無理だったかもしれない。運もあったと思う。


 さて、引用の記事。
 被災地の被害が余りにも大きい。そして、そこから立ち直れるだけの、十分な資金も時間もない、というのが与えられている現状だと思う。
 ここまでの災害になるとは、当時はちょっと予想がつかなかった。
 勿論、3月の14日ごろには、東日本全体が撤退すべき地域になる、そういう可能性も想像はできたわけだが、色々運も重なって、原発の被害も最小限に近いぐらいの地域に限定されたとも思える。3月22日ごろの雨で、広範囲に大規模なフォールアウトがあったときは正直もうダメだと思った。まじめに上海ぐらいまで逃げる準備もしていた。

 それは杞憂だった、と言えばそれまでだが、私自身は精神力を大きく削り取られてしまい、立ち直れなくなってしまっている。それでも、その年には、ガソリンの節約や、献血の限界までの実施など、自分に出来ることを全力でやった。
 きっと、人のことなんか放っておいて、利己的に行動すべきだったのだろう。非力な自分が、困っている人を助けられる、という幻想を抱き行動をしたことが結果的に自分の首を絞めてしまった。

 だから、今、被災地で困っている人には、やはり自力で回復を目指すしかないのでは、と思わないでもない。仮設が仮設ではなく、そこが「供与」されるべき場所、として交渉し、新しい出発点の町が、「今暮らしている場所」になることも獲得すべき権利なのではなかろうかと思う。
 こんなケースで簡単に適用されるとは思えないが、土地というのは20年住んでいれば自分の物になる、という法律がないわけではない。あれほどの地震と津波の被害があったのだから、現状でこの法律がもっと柔軟に適用されても良いのではと感じる。
 既に、故郷に戻れなくなりかけている人たちも同様ではないだろうか?
 現在住んでいる場所、を自宅とし、勿論その物件を貸している人はいるわけだから、政府が貸主から買い取って、使用者に与える、という大岡裁き的動きがあってしかるべきではないだろうか?
 このままでは、立ち上がれるはずの人も立ち上がれなくなってしまう。
 法整備などはとても大変だと思う。だからこそ、被災者自信がその権利を獲得するのは自己責任で行動を起こすしかないのでは、と思う。

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■岐路に立つ被災地の「仮設商店街」 迫る退去期限、新設への移転進まず
(THE PAGE - 03月11日 14:43)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=177&from=diary&id=4472929

 東日本大震災から6年を迎えた被災地で、震災後に復興支援として建てられた「仮設商店街」の多くで設置期限が迫っています。

 独立行政法人の「中小企業基盤整備機構」(中小機構)が建設し、各自治体を通して被災した商店主などに無償で店舗を提供してきた仮設商店街は、岩手、宮城、福島など被災地に合わせて70か所。しかし、2017年2月末時点で閉鎖されたのはこのうち18か所で、残りの仮設商店街の多くも、この3月末から2年以内に退去・撤去の予定になっています。テナント料や集客への不安などの理由から新しい商業施設や常設店舗への移転は思うように進んでいません。

「仮設」から「新設」に移転する店舗はゼロ
 福島県いわき市にある久之浜地区の商店街は、東日本大震災の地震と津波で全壊する被害を受けました。そんな久之浜にあって地元小学校の敷地を間借りしてる「浜風商店街」は、震災後で最初にオープンした仮設商店街。プレハブ1階建てで、2011年9月、食堂やスーパーマーケット、理容室、駄菓子屋さんなど、9店が集まって営業を始めました。「からすや食堂」の遠藤貴美さん(56)は、仮設商店街が地域のコミュニケーションの拠点だったと話します。

「この商店街は、地元の人も、地元以外の人も、本当にいろんな人たちが来てくれたんだよね。だから、来てくれた人たちには、気持ちよく帰ってもらえるようにって笑顔で迎えてきたんです。みんなここに集まって、お茶飲んで……。でも、このお店も一応3月いっぱいまで。4月からは元の場所に戻って営業することになってるけど、まだはっきりしてないの」

 「浜風商店街」の退去期限は3月末の予定です。「からすや食堂」の新しい店舗も建築中ですが、建築業者の人手不足もあり、店舗が再オープンする日程が未だに決まってないのです。

 久之浜では、この4月、かさ上げした沿岸に新しい商業施設「浜風きらら」が新設オープンする予定ですが、「浜風商店街」から移転する店は1軒もありません。商店主たちは口々に、経済的に条件が合わなかったと言います。

 一足早く仮設店舗から卒業し、元の場所をかさ上げしてスーパー「はたや」を再建した遠藤利勝さん(52歳)は、経営が黒字になる見込みはまだ立たないと言います。

「あんまり考えても仕方ない。動いている方がいい。そう思って店を再建しました。でも、ご覧の通り、この近所で全壊した家は、まだほとんど再建してません。『浜風きらら』も4月にならないとオープンしないし、復興住宅などからこの辺りにつながる橋もまだ建設中です。復興が進んで新しい人の流れができてくれば、何とかなるかなって思ってるんですけど……」

 これは、久之浜だけに限った話ではありません。岩手・宮城・福島の津波被害の大きかった沿岸地域では、仮設店舗から店を再建しても多くの場合、肝心の客が集まらずに売り上げが見込めないという現実があります。

復興需要に頼らず離れた地元の客を取り戻す
 宮城県の調査によると、2016年10月時点で県内の仮設商店街で営業する302店舗のうち、262店舗が営業継続を希望していますが、そのうち約42%の111店が「再建方法は未定」と回答。その理由として、復興の遅れなどで再建場所の確保が困難である事や、売り上げの回復が見込めない事をあげています。

 宮城県南三陸町の「さんさん商店街」は、2012年2月にオープン後、年間で20〜40万人もの観光客などが訪れる人気スポットでした。2016年12月に仮設商店街は閉鎖、沿岸のかさ上げされた地域で新たに常設の「さんさん商店街」が建てられ、今年3月3日に再オープンしました。

 しかし、仮設店舗から常設店舗へと移転したのは32店舗のうち23店舗。地元で長く親しまれた「豊楽食堂」は、常設店舗には移転せず休業する事を選択した一軒です。仮設の「豊楽食堂」を切り盛りしていたのは、岩田大さん(29)。仙台で板前修行をしている身でしたが、祖母が仮設商店街で店を再建するのを機に、祖母の店の厨房に入り腕を振るってきました。

「移転の話がなければもっと続けてたかもしれませんが、自分の力不足です。テナント料などの関係もありますけど、自分の場合は、もう一度ちゃんと腕を磨きたいと思ったんです。このまま観光客とか復興関係者で賑わってる状況が続くとは思えない。未熟な自分を支えてくれた商店街の人たちや、『店を再開するときにはまた来るよ』と言ってくれたお客さんたちを裏切らないためにも、ちゃんと腕を磨きたいです」

 震災前は街の中心地にあり、ほどんど地元の人だけが利用していた「豊楽食堂」でしたが、震災後は地元の人たちが離れてしまったと岩田さんは実感しています。だからこそ、地元の人たちに親しまれるような店をもう一度南三陸で再開したいと決意を語ってくれました。

地域が復興しなければ商店も再建できない
 仮設住宅とは異なり、多くの仮設商店街は、土地の所有者が返還を求めたり、区画整理などの都合で立ち退きを要求されたりしない限り、行政の判断次第で延長可能です。その一方で、仮設商店街を撤去する際の費用を国が負担する期限が最大で7年半と限られています。

 復興庁の担当者によると、仮設商店街の撤去費用には、数百万から数千万円かかるといいます。そのため、結果的に多くの仮設商店街がこの春から2年以内に撤去することになるのです。自治体や中小機構としても、地元の復興状況などを十分に考慮して、無理のない退去を求めていますが、その一方で、被災店舗の「自立」のためにも、他の再建支援などを積極的に活用するよう促しています。

 久之浜の「浜風商店街」でも、3月末ですべての店舗が退去する方針となっているものの、各店舗の再建状況などを様子を見ながら閉鎖していく見込みです。「はたや」の遠藤さんはこう話します。

「これまではあっという間の6年間。でも、店を再建して久しぶりに来てくれたお客さんの顔とか見ると、お互いに年取ったなって。6年間はやっぱり長い時間です。今までは原発作業員の人たちや観光客の人たちが来てくれたけど、これからは久之浜が魅力ある地域になるようにしないと。お年寄りが元気に暮らして、震災や原発事故で地域を離れた若い人たちが戻ってこようかなって思えるようにね」

 被災地の生活圏を復興させるために欠かせない商店主たち。しかし、地域が復興しなければ商店主たちも再建できないというもどかしさを抱えるなかで、新しい岐路に立っています。

(フリーランス編集者/渡部真)
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