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2017年02月23日19:07

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峯島正行の遺した漫画評論『回想 私の手塚治虫』

峯島正行『回想 私の手塚治虫』をご恵贈いただいた。
書名には長い長いサブタイトルがついている。「『週刊漫画サンデー』初代編集長が明かす、大人向け手塚マンガの裏舞台」であるが、一冊の本を書けるほどの付き合いをした執筆者をもつ編集者というのは、そうそう存在するものではないだけに、まずは敬服するばかりだ。

さらには、著者は『荒野も歩めば径になるーロマンの狩人・尾崎秀樹の世界』(実業之日本社)、『評伝・SFの先駆者 今日泊亜蘭ー“韜晦して現さず”の生涯』(青蛙房)など多くの著作をものされている。ゾルゲ事件の尾崎秀実を終生追い続けながら、大衆文芸評論の世界に大きな足跡を遺した文芸評論家・尾崎秀樹や、眉村卓や光瀬龍などに大きな影響を与えた日本SF界の最長老というか、いまや伝説の人とも言うべき今日泊亜蘭の評伝を遺されているということは、編集者であるとともに評論家の才能を合わせもっていたということだろうか。

近藤日出造を団長、横山隆一と杉浦幸雄を副団長とし、途中参加の手塚治虫、著者を加えて十三人の《M・A・N・G・A旅行団の世界一周》の章は、一つの時代をつくった漫画家たちの意気軒昂ぶりをうかがわせるに十分である。

つづいて、《二人の友から得たもの》の章に出て来る、友の一人は馬場のぼるである。手塚治虫は「馬場には一目も二目を置いていた」というのは、確かに「不思議だ」と言うほかない。小学生の頃、学年誌だっただろうか、馬場のぼるのほのぼのとした漫画は愛読したが、その頃、「天下第一等の人気漫画家」であった手塚治虫の作品にはめぐり合わなかった。なんだか不思議な話である。

もう一人の友である小島功は、編集者時代の吉行淳之介という「後ろ盾のもとに、女修業」に精を出し、「女の色気を描かせたら、右に出るものはないという技量を磨いた」のだが、それは手塚治虫にはない世界であった。それだけに、手塚が小島との「交友の間にどれだけ刺激と影響」を受けたか、計り知れないものがある、と著者は推量している。

石ノ森章太郎、藤子不二雄、赤塚不二夫など、トキワ荘の俊英が台頭してくる《疾風怒濤の日々》は、奈良医科大学の研究室に通って、医学博士号を取得し、結婚して家庭をもち、アニメーション制作に乗り出して、『鉄腕アトム』をテレビ化するなど、手塚にとって新たな挑戦の日々でもあった。

そんななか起きた手塚と石子順造の論戦もさることながら、戦時下における漫画界の大御所・近藤日出造、横山隆一らの活動を暴き立て批判した、石子の『マンガ芸術論』がいかに実像と乖離した評論であるか、著者は力説してやまない。

「児童漫画の王者」手塚治虫が、まったく「別世界」であった《大人漫画を描く》ようになったのは、昭和三十年、文藝春秋秋増刊号『漫画讀本』に載せた「第三帝国の崩壊」が「大人漫画の処女作いっていいかもしれない」という。『週刊漫画サンデー』に本格的な長編物語漫画《『人間ども集まれ!』の連載》をスタートしたのは、昭和四十二年になってからだ。伝説になっていた手塚邸に詰めての“原稿取り競争”の熾烈さを知るのも面白い。

この『人間ども集まれ!』は、「まず生きとし生けるものを愛する心」と、「全体主義、独裁的権力によって戦争が起こされ、愛すべき多くの人や生物が殺される」ことへの「反戦」の心情で貫かれている、と《戦争で鍛えられたヒューマニズムの精神》の章で述べ、手塚の戦争体験をつまびらかにする。そのうえで、チェコスロバキアの思想的作家カレル・チャペックの戯曲『R.U.R.』、小説『山椒魚戦争』と重ねながら、《手塚独創のロボット法》に論及し、『鉄腕アトム』終盤の「反逆者、青騎士」との闘い、さらには『アトムの最後』の意味を問い直すのは、同じ戦争体験をした著者ならではと言うべきだろう。

つづく《生殖ロボット第一号》の章で、著者は『人間ども集まれ!』の無性人間が繰り広げるストーリーを詳しく解説し、「巨大なSF人間喜劇」であり「最大傑作」と自負してやまないのだが、これが単行本として刊行された時、「最終部が大幅に改編されて、雑誌に連載されたものとは結末が全く違っている」という。そのことについて、手塚は講談社全集版の後書きで、「この漫画のラストは、少し書き直してあるのです。連載の最終回はもっとハッピーエンドでした。それを、このような突き放す結末にしたのは、カレル・チャペックの『山椒魚戦争』のラストに感銘を受けた影響があると思っています」と述べている。著者は「やはり雑誌での終わり方のほうが好きである」というが、手塚にとってチャペックの影響は大きかったようだ。

手塚が新しくスタジオ兼住宅を建て、《夢のアニメ制作》に乗り出し、《虫プロの出発》から、大ヒットの高視聴率を記録して、《日本最初のテレビアニメ『鉄腕アトム』の成功》をみるのが、昭和三十八年である。その頃、一方では、大人漫画に取り組んでいる最中であるから、まさに超人的というほかない。だが、著者は《虫プロ経営の実体》の章で、どんぶり勘定で赤字を累積するばかりの、経営者不在のおそるべき実態に切り込まないわけにはいかない。

組織マネジメントの問題もあり、何よりもアニメ業界を取り囲む環境の様変わりもあって、昭和四十七年秋、虫プロはあえなく倒産した。だが、手塚治虫は見事に蘇った。不朽の名作『ブッダ』をはじめ、『ブラック・ジャック』『アドルフに告ぐ』等の大作が誕生するのは、その後のことである。

手塚は漫画評論のあ方について、「第三文化としてのまんがのユニークさを、確固とした信念で語り得るためには、少なくとも、まんが評論家諸氏は、冷静に大局的な目で、論議してもらいたい」「そういう意味で、ことにまんが雑誌の編集者で、まんが界全体の動きを平等にとらえられる人に新しいタイプのまんが評論家として立つことを期待したい」と述べ、具体的に「実業之日本社の小城彪などはその期待にこたえる一人だと思う」と名指ししている。

小城彪とは他でもない、著者の編集長時代のペンネームである。昭和初期の北澤楽天、岡本一平などに始まり、「新漫画派集団」を結成して集団売り込みの漫画革命を起こした近藤日出造、杉浦幸雄ーー「今日泊亜蘭と深い交友を持ち、その影響を受けた」とは知らなかったーーらの老大家から、友人の馬場のぼる、小島功など、さらにトキワ荘の後進の面々などとの関係性のなかで、すなわち漫画界の過去・現在・未来との関わりのなかで、手塚治虫の生き方と業績を浮き彫りにし、位置づけた本書こそ、まさにこの手塚治虫の期待に応えた労作業ということが出来るだろう。
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