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2016年12月17日04:36

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マスゴミは大ウスリー島の分割で領土が帰ってくるかのごとき幻想をばら撒いたが・・・常日頃、ドイツに学べと言っている割にはドイツがロシアに領土を占領されたことを全く学んでいない。

皆さんはヨーロッパの地図を見たことがあるだろう。その中でバルト海でドイツとポーランドに面した一角にロシアの飛び地があるのは疑問に思ったことは無いのだろうか?


日本の北方領土も悲劇だが、旧ドイツ領・ケーニヒスベルクの悲劇について知っている日本人は殆どいないんじゃないのか?


苛烈な地上戦の末、ソ連に占領され、生き残った住民もシベリアに抑留され、彼らの半数は飢餓や病気で死亡した。


ありもしない南京大虐殺や従軍慰安婦で騒ぐより、共産主義者の理不尽な侵略行為で殺された現実から目を背けるな。


そして、戦争で分捕られた領土は、戦争で取り返すしかないのである。


占領したロシアにとっても、血で勝ち取った領土という認識があるから簡単には返さないだろう。


日本軍だって北千島の占守島でソ連軍相手に反撃し、痛烈な一撃を与えているのだから、奴らにとっても、火事場泥棒とはいえ血で購った土地なのだろう。



ケーニヒスベルク (プロイセン)Königsberg (Pr)

座標: 北緯54度43分00秒 東経20度31分00秒
過去に属していた国 プロイセン公国/ドイツ国

ケーニヒスベルク(ドイツ語: Königsberg, 公式表記:Königsberg (Pr)[1][2])は、中世後期から1945年までの東プロイセンの中心都市であった。現在はロシア連邦のカリーニングラードとなっている。

北方十字軍の時代、1255年にザームラント(ドイツ語版)半島の真南のプレーゲル川河口にドイツ騎士団によって建設され、ボヘミア王オタカル2世を記念して名付けられた[3]。街は、ドイツ騎士団国、プロイセン公国、東プロイセン州の首都となった。バルト海の港は、ドイツの文化的中心地へと発展していった。リヒャルト・ワーグナー、イマヌエル・カント、E.T.A.ホフマン、ダフィット・ヒルベルトなどの著名人の住居もあった。

ケーニヒスベルクは第二次世界大戦中の1944年の連合国軍が行った空襲により相当の被害を被り、赤軍との戦い(ケーニヒスベルクの戦い)に敗れ、陥落した。ポツダム宣言によりケーニヒスベルクを含む東プロイセンの北半分はソビエト連邦に併合、ドイツ人は追放され、その後主にロシア人が入植した。その後短期間、「キョーニクスベルク」 Кёнигсберг (Kyonigsberg) というようにロシア風の名称となり、時の最高会議幹部会議長ミハイル・カリーニンにちなんで、カリーニングラードと改称された。現在のカリーニングラード州州都である。


ロシア領カリーニングラード

1945年の第二次世界大戦終結後、ポツダム会議での連合国の同意を得たポツダム協定により、和平調停において領土問題が最終的に解決するまでケーニヒスベルクは、ソビエト連邦を構成するロシア・ソビエト連邦社会主義共和国に併合された(第5項 ケーニヒスベルクと近隣地域)。

会談では、ダンツィヒ湾東岸の地点から東に、ブラウンスベルク・ゴルダプの北を、リトアニア・ポーランド共和国・東プロイセンの国境合流地点に及ぶ、バルト海に隣接するソビエト社会主義共和国連邦の西部戦線の領域について、和平調停では領土問題の最終決定を保留するというソビエト連邦政府による提案を検討した。 会談では、原則として、ケーニヒスベルクとその隣接地域のソビエト連邦への最終的な移管に関して、上記のように、実際の国境を専門家による検討の対象とする、というソビエト政府の提案に合意した。 アメリカ合衆国大統領とイギリス首相は、来るべき和平調停において、本会談における本提案を支持することを表明した[50]。

赤軍によるケーニヒスベルクの占領後、街はロシア風に「キョーニクスベルク」нигсберг (Kyonigsberg) と呼ばれていた。これを「バルト海の町」を意味する「バルチースク」に改称することが当初は検討されたが[51]、オールド・ボリシェヴィキの1人でソ連最高会議幹部会議長ミハイル・カリーニンの死後、1946年7月4日に、カリーニングラードと改称された。その代わり「バルチースク」は、近くの港町ピラウの改称に用いられた。ドイツ人住民は占領された西方ドイツか、シベリアの強制収容所に追放され、彼らの半数は飢餓や病気で死亡した[48]。

民族浄化の後、カリーニングラードの旧市民は完全にソビエト市民に入れ替えられた。生活は劇的に変わり、街にはカリーニングラードという新しい名がつけられ、日常言語としてのドイツ語はロシア語に取って代わられた。破壊を免れたいくつかの建物が残った旧アルトシュタットは再建され、カリーニングラードは工業化と現代化が行われた。ソ連の西端地域の1つとして、カリーニングラード州は冷戦期に戦略的に重要な地域となった。ソ連のバルチック艦隊の本部が置かれ、その戦略的重要性のためカリーニングラードは閉鎖都市として外国人訪問者を締め出した。



日露、経済活動交渉推進で合意
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=2&from=diary&id=4345224
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