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2016年12月12日09:32

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赤城から風

去る土曜日、待望のヤクを手にして、午後からはちょっとお出掛けしました。

その足に使ったのは、久し振りの出番となるスポルティーフ。
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スポルティーフとは、旅行用自転車=ランドナーの走りに特化した一形態と位置付けられており、狭義のランドナーの多くが650Bという小さめのホイールを使っているのに対し、ロードバイクと同じ700C(こちらの方が大きい)を履いています。

狭義のランドナーであるブリジストンユーラシアも所有していますが、こちらは半スクラップ状態だったのを5年程前にレストアしたモノで、私の中では永久保存版。

スポルティーフは以前中古で入手したモノで、ITOIというブランド名?が入っておりますが…
何だろう?
TOEI=東叡社のパクリ、いやいやパロ?
この辺りはよく分かりませんが、なかなかのお気に入りです。

とは言え、乗り慣れているロード(こちらはカーボンフレーム)に比べれば、速度はさほど出ないし、重量もあって使い易いとは言えませんが、Fキャリアに付けるこのライト、センタープルブレーキ、ダブルレバー、革サドル…という趣味的なライドを楽しむ際の1台という存在です。
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目的地は以前から気になっていた流山…
流山市と言えば、近年は子育てし易いとか打ち出しているようですが、松戸〜柏〜流山の一帯は、かつて勤めていた某紳士服チェーンであちこち足跡をしるした場所でもあります。
しかしそれより気になっていたのは、「流山」の名前の元になった場所…流鉄平和台駅近くに有る赤城神社です。

この辺り、基本的には平べったい場所なのですが、この神社が有るのは10数mの小さな丘の上…
13世紀に群馬県の赤城山の一部が洪水で流れてきて、この地に鎮座したという言い伝えが有るのだそう。

ひょっこりひょうたん島のように、山がその形を保ったまま流れてくるとは思えませんが、大量の土砂がこの地に溢れたという事は有ったかもしれません。

実は、現在の勤務先のほぼ同期(私が中途入社した1月前に新卒で入社、既に退社)にこの辺りに住んでいた人がおり、その話は耳にしていました。
更に、森○千里が近くにいたというウワサが有ったとも?
ま、ウワサは有ったけど見た事は無いと言っていましたし、真偽は定かではありません(*^^*)

そんなこんなで、1330くらいに拙宅を出発。
基本的に、大通りをちょいと進んで横道に入り、また大通りを渡って〜という具合に横道メインではあるのですが、船橋市は人口が多い割には道路事情はかなり悪いです。
大通りの多くは、車道2車線がいっぱいいっぱいで、自転車が走る路側帯など無いところもあちこちに有ります。

船橋市、鎌ヶ谷市は殆どがそんな感じ…二和からは横道で木下街道に出ます。
木下街道を少し走ったら、セブンイレブンを左折するのですが、このセブンイレブン、なんと解体中…看板だけはまだ有りましたが…

ここでふと思い付いて、左折せずに直進。
鎌ヶ谷大仏駅方面へ向かいました。

この駅近くには、その名のとおり大仏様がおわします。
小さな大仏様です。
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昔からここにおわすのは知っておりましたが、実際に目にした事は有りません。
思い付いた機会に見ておこうという訳です。

だいたいの場所は知っており、また木下街道沿いだったので、すぐに分かりました。

ここからは県道をひたすら松戸方面へ。
信号が多いため、なかなかスムースに走れません。

五香十字路から八柱を抜けて水戸街道へ。
馬橋から流山橋の道へ入ります。

余談ですが、ここまで来る間に、某紳士服チェーンは3店舗見掛けました。
松戸八柱店はよく販売応援に駆り出されていたし、松戸馬橋店は開店応援で一週間実家から通いました。

南流山店は、柏店準備委員中に地区長と2人でパートさん&アルバイトさんの面接…
どうした経緯で他店の副店長の私がそれする事になったのか忘れましたが、後日何か用事が有って南流山店へ行った際、キレイな女性に「面接の時にいらっしゃいましたね」と声をかけられた事だけはよく覚えています(*^^*)

もう1つ、鎌ヶ谷店前も通りましたが、いつの間にか更地に…
近くで原チャリこけてケガした時に、知っている方がいる事も有り、ここで手当てして貰った事が有りました( ̄▽ ̄;)

流山橋の通りと流山街道の交差点は歩道橋で越えました。
この歩道橋からは、目的地=赤城山の一部を望めますexclamation
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目星をつけて近付いて行くと、登山道入口みたいなところに出ました。
バイクを駐めて登っていくと、あっという間に赤城神社の裏手へ。
今のは裏参道だったようです。

お詣りして、今度は表参道を戻ります。
鳥居には立派なしめ縄が有りました。
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こうして見ると、平らな場所にここだけがポッカリと高くなっており、「山が流れていた」という言い伝えも納得出来る気がします。
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ま…
周囲も元々平らだった訳ではなく、住宅街にする際にならしたのだと思いますが…

さて
流山と言えば、あの場所を忘れてはいけません。
近藤勇屯所跡。
流山街道からちょっと入った場所に有り、昔からこの案内看板を見ていましたが、行った事は有りませんでした。

再びバイクに跨がり、流山街道を北へ。
もう少し先かと思っていたら、あっという間に到着しました。
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新撰組は、鳥羽・伏見の敗戦後、幕府の軍艦で江戸へ戻ります。
勝海舟の依頼で幕臣として甲陽鎮撫隊を組織し、甲府で新政府軍と戦いますが、ここで惨敗して隊士もバラバラになりました。

近藤は土方らと流山で再起を計りますが、新政府軍に急襲され、近藤は旗本大久保大和と身分を偽り、「新政府軍に敵対する気は無い」と投降。
当時は顔写真が溢れている訳ではなく、実際に顔を見た事が無ければ、誰がどんな顔をしているのか、分かりようもなかったのです。

ところが、新政府軍の中に御陵衛士(元新撰組の伊東甲子太郎一派、脱隊して新撰組により粛清。その後薩摩藩と行動を共にする)の生き残りがおり、近藤の正体がばれてしまい、斬首され首をさらされました。

その際の屯所の跡という訳です。
長年の同志である土方にとっては、ここが近藤との別れとなりました。

土方はこの後も戦い続けますが、最後は五稜郭の戦で銃弾に倒れ戦死します。

またまた余談ですが、近年新政府軍の有り様を否定的にとらえた文章を多く目にします。

確かに赤報隊の事やらその他諸々「汚い」事も色々有りましたが、当時の世界を考えると、薩長〜新政府軍のやり方は理想的ではなくても、かなりよくいった方だったと思っています。

どちらの側にしても、日本の為に命をかけて戦い、死んでいった多くの日本人がいた事は忘れてはならない事だと思っています。
それに比べれば、ヤジだの般若心経だので騒いでいる国会など、茶番劇かという思いです。

屯所跡に立って、そんな事をあれこれ思いました。

ブルブル

風が冷たくなってきました。
ここらで帰路につきます。
往路は向かい風気味でしたが、復路は追い風。
今度は松戸市街から八柱霊園の脇を抜けて帰りました。

さてさて
やはりロードに比べると、スポルティーフは遅いしその分体力を使います。
しかし、これはこれでやっぱり楽しい(((o(*゜∀゜*)o)))

ツーリングというよりポタリングの時は、コレを主力にするのも有りですo(^o^)o
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