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2016年11月25日11:35

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“鹿を指して馬となす”韓国教授の思い込み主張を正す 下條正男・拓殖大教授

 下記は、2016.11.25 付の【竹島を考える】です。 韓国にも極まれに、学者と呼べる研究者はいるが、この崔長根(チェ・ジャングン)と言う人物は、単なるプロパガンディストですね!

                       記

 韓国・大邱(テグ)大学の崔長根(チェ・ジャングン)教授は11月1日、『嶺南日報』(電子版)に「日本の独島(竹島)領土捏造(ねつぞう)」と題する一文を寄稿した。だが、何度かクリックしたが、閲覧できなかった。読むことができたのは、ネット上に公開されていた次の部分だけであった。

 「現在、日本の外務省の独島領有権の主張は、『竹島問題研究会』が捏造した論理をそのまま踏襲している。この研究会は、過去韓国で10余年間日本語を教えた講師で、独島に無知な下條正男が煽動(せんどう)…」

竹島研究会への的外れな批判

 ここで崔教授が言わんとしたことは想像がつく。崔教授は11月10日付の『大邱新聞』(電子版)にも、「日本で会った2人の日本人の独島に対する思考方式」と題したエッセーを載せており、次のように述べているからだ。

 「最近になり、普通の日本人たちもこのような認識を持ったのは、下條正男という人物の影響が少なくない。彼は教授という身分を掲げて島根県を動かし、2005年に『竹島の日』条例を制定するようにし、『竹島問題研究会』を作って『国家が領土を捨てた』として煽動した。極右的性向の安倍政権がこれに便乗し、彼が捏造して歪曲(わいきょく)した論理をそのまま公教育に反映させ、竹島教育を義務化するよう社会的雰囲気を助長した」

 だが竹島は、歴史的に韓国領であった事実はない。従って私が「捏造して歪曲した論理」とするのも正しくない。それに「島根県竹島問題研究会」は、島根県の要請で発足したもので、活動はほぼボランティアである。その「島根県竹島問題研究会」の竹島研究が気になるのは、韓国側にとって不都合な事実を明らかにしてきたからである。

「独島=韓国領」の前提で進める崔教授の論稿

 では、「捏造して歪曲した論理」と批難する崔教授の竹島研究とは、どのようなものなのか。昨年3月、崔教授が日本の中央大学の学術雑誌『法学新報』(第121巻/第9・10号)に発表した論稿(「韓国の『于山島(うさんとう)→石島→独島』への名称変換に関する研究−勅令四一号の『石島=独島』の検証」)がある。

 崔教授はその冒頭から「独島は歴史的権原に基づき、今日の韓国が実効的に管理している韓国固有の領土である」とし、竹島を韓国領とする前提で論を進めている。その論理展開は演繹(えんえき)的である。

 そこで論拠としていたのは、「日本は、日本の大陸侵略の過程で、日露戦争中に韓国固有の領土だった独島に対して無主地であるとし、国際法の無主地先占論理を悪用」したというものであった。

 だが日本政府が竹島を「無主の地」としたのは、竹島には「他国ニ於テ此ヲ占領シタリト認ムヘキ形跡」がなかったからで、日露戦争とは直接、関係しない。竹島の日本領編入が、日露戦争の時期と重なっていただけのことである。

本末転倒の解釈

 そこで崔教授は、竹島は欝陵(うつりょう)島からは見えるが、日本からは見えないとして、それを根拠に、竹島は韓国領だとしたのである。

 しかし、「見える」からといって、竹島を韓国領とすることはできない。小笠原諸島は、東京から南南東千キロほどに位置し、近年、活発な火山活動でその面積を拡大した西之島は小笠原諸島の父島の西、130キロにある。いずれも本州や父島からは「見えない」が、日本の領土である。

 このため、次に崔教授が論拠としたのが、1454年に撰進(せんしん)された朝鮮の文献『世宗実録・地理志』である。その「蔚珍(ウルチン)縣」条に、「于山島と武陵島の二島は、蔚珍県の正東の海中にある。〔分註〕二島は相去ること遠くない。よく晴れた日には望み見える」として、「見える」とあるからだ。

 崔教授によると、実際に欝陵島(武陵島)からは独島(竹島)が見えるので、『世宗実録・地理志』の「蔚珍縣」条にある于山島は、独島に違いないというのである。だが文献批判もせずに、地理的与件で文献を解釈するのは、本末転倒である。中央集権的な社会体制が続いた朝鮮半島では、地方を統治する必要から地理志や地誌が作られており、時代が下るに従ってその内容も正確になっているからだ。

時代が下る従い正確になる地理志や地誌

 1481年には『世宗実録・地理志』を踏襲した『東国輿地勝覧』が編集され、1530年には増訂されて『新増東国輿地勝覧』となり、1760年代には『輿地図書』が編纂(へんさん)された。

 その『輿地図書』の本文からは于山島が削除され、『新増東国輿地勝覧』では、『世宗実録・地理志』」で「望み見える」とした先に、「三峯岌●(=山へんに業)(=険しく高い)として空を●(=手へんに堂の土が芽のくさかんむりを取る)(支)え、南峯はやや卑(低)く、よく晴れた日には峯頭の樹木及び山根の沙渚」が「歴々見える」としていた。

 これは「独島」ではなく、朝鮮半島から見た欝陵島のことを言っている。独島には樹木も沙渚もないからだ。

 これらの事実は、『世宗実録・地理志』の于山島は今日の独島ではなく、「見える」は朝鮮半島から欝陵島が「見える」と解釈しなければならない、ということなのである。

過去の文献を曲解せぬ限り成立しない主張

 そのため崔教授は、『新増東国輿地勝覧』を引用する際には、肝心な「峯頭の樹木及び山根の沙渚が歴々見える」の部分を省き、『輿地図書』の存在には触れないのである。崔教授は、自説にとって不都合な部分や文献を無視して、馬を鹿とし、鹿を馬としていたのである。

 崔教授が前提とした「独島は歴史的権原に基づき、今日の韓国が実効的に管理している韓国固有の領土」説は、『世宗実録・地理志』(「蔚珍縣」条)の「見える」を欝陵島から独島が「見える」と曲解しない限り、成立しないのである。

プロパガンダに過ぎぬ論稿やエッセー

 この崔教授の論稿に限らず、韓国側の竹島研究には共通点がある。歴史研究の基本である文献批判をした形跡がないことである。崔教授の場合、1696年に日本に密航した安龍福(アン・ヨンボク)は、「日本側から明確に欝陵島とともに『于山島』が朝鮮の領土であることを主張し明確に認めてもらった」とし、鳥取藩主と直接交渉して欝陵島と独島を朝鮮領としたとする安の供述を歴史の事実としている。

 だが安は、鳥取藩主と直接交渉などしていない。その歴史的事実は、2012年に韓国の国策研究機関である「東北アジア歴史財団」が刊行した『因幡国江朝鮮人致渡海候付豊後守様へ御伺被成候次第并御返答之趣其外始終之覚書』で確認ができる。

 ここには、幕府の指示を受けた鳥取藩によって安が追放された事実が記録されている。鳥取藩主との交渉の事実などなく、安は虚偽の証言をしていたのである。

 中央大学の学術雑誌である『法学新報』に発表した崔教授の論稿や『大邱新聞』などに寄稿した崔教授のエッセーは、馬を鹿とし、鹿を馬とするためのプロパガンダに過ぎなかったのである。
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 http://www.sankei.com/west/news/161125/wst1611250008-n1.html
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