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2016年11月17日17:46

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トランプを罵倒したデ・ニーロが一転「敬意を払う」。「クソ安倍」と言い続ける人は無邪気だ

■トランプを罵倒したデ・ニーロが一転「敬意を払う」。「クソ安倍」と言い続ける人は無邪気だ
(日刊SPA! - 11月17日 16:42)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=81&from=diary&id=4298193

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いまだ冷めやらぬトランプ大統領誕生の衝撃。現実を受け入れられないセレブも多いようだが、一方では態度を変える動きも出始めている。

◆反トランプのセレブたちが、次々と「受け入れる」発言

 歌手のマイリー・サイラスは、トランプ大統領を認めるとし、その代わりあらゆる人々に敬意をもって接するよう求めた。

 カナダへの移住をほのめかしていた俳優のブライアン・クランストンも、「次期大統領が傷ついた我々の国をひとつにまとめてくれることを願う。心から彼の成功を願っている」(映画.com 11月10日配信)と語ったという。

 そんな“転向組”の中で、最も象徴的な存在がロバート・デ・ニーロだろう。選挙中にトランプ氏を「バカ、豚、クソ、ペテン師」とまくしたて、「殴ってやりたい」とまで言って攻撃していた彼が、投票結果を受けて次のようなコメントを発表したのだ。

「大統領という地位には敬意を払わなきゃいけない」「彼がこれから何をして、実際に個々の課題をどのように処理していくのかを、われわれは注視していかなければならない」(AFP BB NEWS 11月11日配信)

 手のひら返しと言ってしまえばそれまでなのだろうが、この言葉にはそれだけでは済まされない“原則”があると思うのだ。それは、デ・ニーロが正当な慎み深さをもって権力に向き合っているという事実による。

 もちろん世界最高クラスのパワーを有する「アメリカ大統領職」を前にして平伏せざるを得ない現実もあるだろう。

 しかしそれ以上に、単純な批判が権力者にとって栄養にしかならないという構造的な必然性に対する畏怖こそが、デ・ニーロの姿勢を変えたとは考えられないだろうか。

 “憎まれっ子世にはばかる”が真理であるとすれば、トランプへの攻撃は彼を支援することと同義になってしまうのだ。トランプの右腕とされるスティーブン・バノンは、新大統領に向けられるあらゆる批判を読み替えて、反撃する際に燃料として使うだろう。

 だから、無邪気で一義的な批判は厳に慎むべきものなのだ。

◆安心して「クソ安倍」と言い続けられる日本

 さて、これを日本に置き換えたとき、有名人たちの権力者への態度が一様に“無邪気で一義的”であることがとても気がかりだ。

 たとえば、「ASIAN KUNG-FU GENERATION」というバンドの後藤正文が「クソ安倍」だとか「くるくるぱー安倍」だと公衆の面前で言い放ったあとでも、温かい食事と睡眠をとり、翌日は何事もなかったように生活できる。

 その秩序体系を維持する最高責任者は一体どこの誰だと考えているのだろうか?同じことを中国やロシアでしてたとして、無事でいられるとでも思っているのだろうか?

 こうした無自覚な反抗で思い出すのが、『あらし』(シェイクスピア)の一節である。ナポリ王国の顧問官・ゴンザーローが思い描くユートピアを次のように語る場面だ。

<この国におきましては、万事この世とあべこべに事を運びとう存じます、先ず、取引と名の附くものは一切これを許しませぬ、役人は肩書無し、民に読み書きを教えず、貧富の差は因より、人が人を使うなど―――とんでもない、すべて御法度、契約とか相続とか、領地、田畑、葡萄畑の所有とか―――これ、またとんでもない話、金属、穀物、酒、油の類に至るまで、一切使用厳禁、働くなどとは以ての外、男と生れたからには遊んで暮す、勿論、女にしても同じ事、ただし未通で穢れを知らず、いや、そもそもこの国には君主なるものが存在しない―――>
(『夏の夜の夢・あらし』シェイクスピア 訳・福田恆存、新潮文庫)

◆「悪に対する未熟さ、おめでたいほどのナイーブさ」

 これらの文言がモンテーニュからの借用であることは知られている。

 だが、シェイクスピアはこうした物の見方の背景に「悪に対する未熟な感性」や「おめでたいほどのナイーヴさ」があることを見抜き、言葉の姿かたちはそのまま残しながら、裏側から理想を眺めていたのである。
(筆者註:「」内は、いずれも『Shakespeare’s Montaigne The Florio Translation Of The Essays』内のスティーヴン・グリーンブラットによる序文からの引用)

 志高いミュージシャンの発する「クソ安倍」は、この純粋な理想を純粋なまま信仰するナンセンスから生まれているのではないだろうか。つまり、自分だけは権力という悪を行使することなく、平等、公正の原則に立ち続けるという根拠なき確信である。

 しかし、言葉を発し、声明を打ち立てること自体がすでに権力の行使であると理解しない限りにおいて、彼らは敗れ続けるだろう。

 その意味で、デ・ニーロの“転向”には学ぶべき点が多々あると思うのだ。

<文/石黒隆之>
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トランプへの批判をころっと変えた人を転向と読んだり、手のひら返しと呼ぶ人に政治が本当にわかるものだろうか。

デニーロは大統領に敬意を払ったのであって、トランプではない。という事が実は重要だと思う。

これは日本人には難しい概念かもしれない。もちろん、日本にもアメリカにも出世競争はあって、そこで繰り広げられる様々な争いは、甲乙つけがたいはずである。

ところで、戦争中に日本海軍の重要な地位はやはりハンモック番号で決められていた。海軍大学校を卒業した時の順位が戦争中においても重要だったのである。

ここにおいて日本では地位と個人が非常に密接に関係付いていることがわかる。それは切っても切り離されない。だから一度でも左遷させられると、その肩書が削り落とされることはない。再び出世するのはかなり難しい。

ここにおいて日本の組織論が実は個人主義と密接に絡まっている事がわかるだろう。組織においての個人の重要性は、世界万国一致する見方であるが、そこにおける個人の扱いは、かなり違うはずなのである。

日本はある個人に肩書をつける、その時、両者は不可分となる。元総理大臣はどこまでいっても総理大臣なのである。これは、江戸時代に、親の仕事を子が継ぐというのにも類似しているだろう。

それを不合理と呼ぶ人もいるだろうが、早い話が子供の頃から英才教育なのであって、王道、覇王道というものは、10年、20年の教育で出来上がるものではない。貴族は三代で潰れるともいうが、やはり、3代以上続いた貴族でないと身に付かないものもある。

一方のアメリカ海軍では、適材適所。先輩を何人飛び越しても大将に昇格する。私のいう事が聞けないなら去ってもらって構わない。そういう立場だ。

その代わり、作戦が終われば、元の階級に戻る。つまり、組織の中で立場によって柔軟に人が動く。立場とはつまり役割に事だ。

昨日まで大統領、明日からはただの人、というのはいかにもアメリカらしい。だから、アメリカの組織は人が重要とはいいながらも、だれか個人に頼る必要のない構造を持とうとする。

ワイフが病気なので、今月でリタイアさせてくれ。これ、おそらく日本では異質。それは困る。会社が全面的にサポートするから、君には仕事を続けてほしい。

アメリカだって日本だってきっと、最初はこう働きかけるはずである。だが、アメリカの方が、このあたりは個人の意思を尊重する。

安倍をバカ呼ばわりして、何が困るのだろうか。バカは馬鹿である。もちろん、僕はまだ安倍晋三が馬鹿であると判断したことはない。そう呼ぶ人がいる。それがなぜ困ったことなのだろう?

この人はロシアや中国でそう呼んだらどうなるか知らないのか、と言う。そりゃ呼ぶ方だって、日本だからそう叫んでいるわけである。

それを無自覚な反抗と呼ぶ。それはつまり権力がその気になれば、お前を消すなど簡単である、という話である。もちろん、その通りであって、それをさせないために近代国家は憲法を持ち、民主主義という形を作ったはずである。

一国の首相は王様ではない。権力者の自由勝手気儘を許さない。それを「悪に対する未熟な感性」や「おめでたいほどのナイーヴさ」と呼ぶこの作者は、果たしてこの記事で何が言いたいのだろうか。

もちろん、彼が全体主義者であることは疑いようがない。トランプの例を狡猾に持ち出しながら、安倍への悪口を封じようとしているのは明白である。この記事からはそれ以外の意図は読めないはずである。

ゴンザーローが思い描くユートピアは、決してシェイクスピアの風刺ではないのである。読みようによれば、これは完全な平等主義であろう。この考え方は、人間の自然状態をイメージする。

必要ならここに共産主義の萌芽を読み取ってもよい。平等を考えれば、どこかでこのようなユートピアに辿り着かなければならない。それがどれほど滑稽に見えても。

その滑稽さなど百も承知で書いているのである。誰が悪であるのか。それを決めることが人間になぜできると考えるのか。

この記者は何も明示しない。それを弱者のナイーブさに過ぎないと言う。

だが違う。

日本の「秩序体系を維持する最高責任者は一体どこの誰」と言えば、国民である。安倍ではない。少なくともこの国の法体系はそう規定しているはずである。

安倍が何かやらかして、この国がどうなろうと、その無能さで安倍を非難できたとしても、その責任を負わせることはできない。最後にその責任を負うのは全ての国民なのである。

この古代のギリシャあたりの民主主義や、王政辺りで政治に対する理解が終わったこの程度の記者ではこのような記事しか書けないのだろう。それはずっと悲しい話である。

デニーロは転向したのではないし、彼の中の気持ちは何一つ変わっていないはずである。ただ、彼はアメリカの前で膝ついたのである。その大統領という地位を尊重したのである。おそらく、ネズミやなめくじであろうと、大統領になれば、そう振る舞うであろう。

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