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2016年10月13日11:11

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神の愛に溢(あふ)るる祈り



以下、「真理の吟唱」(日本教文社)より。


神の愛に溢(あふ)るる祈り

神の輝く愛が自分の全身に流れ入り、常に神の愛が自分の全身から雰囲気となって
放射されているのである。わが家庭全体に神の愛が雰囲気となって満ちわたり、すべての
家族ことごとく愛の雰囲気にとりまかれ、輝くような悦びと平和と幸福とに生き生きとして生活しているのである。

わが家庭は神の家であり、神の子の集まりであり、常に神の智慧に導かれ、神の愛に満たされているから、いかなる不幸も病気も自分の家庭に訪れることはできないのである。

神の愛がわが家庭を護りたまうがゆえに、わが家庭には善きこと、好ましきこと、美しきこと、調和したことのみが集まってくるのである。

神の愛はゆたかなる供給である。神は決して富を求むる者に貧しさを与えたまうことはないのである。しかもすべての家族は天分にかなう仕事を通して全人類に奉仕しているのであり、ゆたかなる供給は自己が人類に与えたる貢献に対して、“動・反動”の法則を通して自己に返ってくるのであって、決して、価を払わずして供給を得ようとするような卑怯な心を、神は私たちに与えたまうことはないのである。そういう卑怯な心を根絶したまうことこそ却って私たちに与えられた神の愛であり恵みであるのである。

わが家族はすべて神の子であるから、決して無責任な卑怯な心を持つことはないのである。自分の一切の行為に対して責任を負い、決して偶然のチャンスで幸福を得ようというような卑怯な心はもたず、ただ「与えれば与えられる」の法則に従って、神からの恵みを受け入れるのである。

「与えれば与えられる」の法則によって循環してくる幸福に対しても、私たちは決して自力によって、「人に与えた」とは思わないのである。与える資源も、与える力も、すべて神からの賜物であるから、私たち個人はただ神の恵みの通過するためのパイプのようなものであるのである。私たちが自己の持っているところの富を、能力を、すべてのものを、次へ回さなかったらば、神の恵みのパイプが塞がってしまったようなものであって、自分自身の生活も快適にはなれないし、また人にも迷惑をかけ、神に対しても誠に申し訳がないのである。愛とは決して単なる感情でも抽象概念でもなく、他にとってためになるものを与えんとする意志の努力であるのである。

常に私たちを護りたまう神の愛に感謝いたします。



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