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2016年09月25日15:01

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堤剛 J.S.バッハ無伴奏チェロ組曲全曲演奏会

【プログラム】
1 無伴奏チェロ組曲 第1番 ト長調 BWV1007
2 無伴奏チェロ組曲 第5番 ハ短調 BWV1011
       〜〜〜休 憩〜〜〜
3 無伴奏チェロ組曲 第2番 ニ短調 BWV1008
4 無伴奏チェロ組曲 第6番 ニ長調 BWV10012
       〜〜〜休 憩〜〜〜
5 無伴奏チェロ組曲 第4番 変ホ長調 BWV1010
6 無伴奏チェロ組曲 第3番 ハ長調 BWV1009

<アンコール>
プロコフィエフ: 「マーチ」
カタルーニャ民謡(カザルス編): 「鳥の歌」

堤 剛(チェロ)

2016年9月11日(日),14:00〜,札幌コンサートホールKitara


堤剛が名実ともにこの国を代表するチェリストであり,音楽界の重鎮であることは十二分に承知している。そして,そのことに異議を唱えるつもりは毛頭ない。

だが,苦手な演奏家であることも事実である。かなり前のことになるが,この人のリサイタルを聴きに行ったことがある。テクニックに圧倒されたわけでも音楽性に感銘をうけたわけでもなく,ただただ退屈で面白くなかった。同じ頃,堤氏が録音したCDの批評を読み,そのCDを買って聴いてみたものの,どこが優れているのか皆目見当がつかなかった。要するに相性が悪いチェリストだと割り切ることにして,それ以来これまで距離を置いていた。

そのような経緯もあって,この日の無伴奏チェロ組曲のチクルスへ出かけるのにためらいがなかったわけではない。だが,この作品を1回でも多く聴きたい気持ちには抗しきれずチケットを買った。

このチクルスを聴いてみて,堤剛に対する評価が180度変わった。この作品はこれまで数限りなく聴いてきたが,堤が弾くバッハの無伴奏チェロ組曲はこの傑作の演奏として最も理想に近いものであった。さらにチェリストとして歩んできた道のりが凝縮されたような演奏にも深い感銘を受けたのである。

最初に気付いたのは,チェロを弾く側が抱く音のイメージを楽器に押しつけていないということである。それとは正反対に,その楽器が持つ固有の響きをいかに引き出すかに心を砕いている姿勢が鮮明に伝わってくる。チェロの響きは自然そのもので,それは無理のない自在な演奏でもある。これほど美しいいぶし銀のようなチェロの音色を聴いたことも,これほど作為のない楽器と一体になったチェロの演奏を耳にしたことも未だかつてない。演奏家の役目とは楽器の個性を最大限引き出すことであり,自分の個性を聴衆に印象付けるために楽器を鳴らすのではないと主張しているようだった。なにか瞑想しながらチェロの音色に耳を傾けているような弾き方である。

チクルスの冒頭,組曲第1番のプレリュードを壮大なスケールで演奏するチェリストも少なくないなかで,堤は一切の虚飾を削ぎ落としたチェロの地声ともいうべき響きで,この曲の骨格を精妙なニュアンスたっぷりに描いてゆく。たぶん声色をつくらない分,聴く者のハートに直接響くのだろう。

もうひとつの発見は,彫刻家が木や石の中に眠るイメージを彫り出すように,チェロという楽器の響きと一体となった無伴奏チェロ組曲をその響きから不用な音を削ぎ落として音楽を造形する堤のアプローチである。彼にとってこの作品を弾くということは,チェロの響きに耳を澄ませ,その響きという素材からこの傑作を削り出す行為なのである。間違っても演奏家が頭の中で捻り出したイメージをチェロに押しつける類のものではない。だから再現された無伴奏チェロ組曲は,夾雑物を極限まで削ぎ落とした純粋な音楽であり,それゆえ揺るぎない構成力を誇る演奏である。これが聴く者の心に強くアピールする秘訣といえそうだ。

たとえば,このリサイタルを締め括る組曲第3番ハ長調は朗々と鳴り響くチェロの音色を最大限に活かした作品であり,その特色のとおり堤は開放的で朗らかな楽想を奏でる。スケールは大き過ぎず,かといってこじんまりしているわけでもなく,強靭な骨格を持つ引き締まった組曲第3番である。この曲の精神性と明朗さが見事にバランスした見事な演奏といえる。そしてストイックな姿勢を堅持しつつも,チクルスの難所を乗り越えた安堵感さえ伝わってくるようだ。

堤は彼自身の無意識の回路を通じて楽器および作品の双方と対話をしつつ無伴奏チェロ組曲を演奏しているといっていいだろう。長い演奏経験を通じて,楽器も作品も堤の身体や心の一部になるまで同化が進み,無意識のレベルでの対話が成立するまで弾き込んでいる様がうかがえる。その意味で堤の演奏活動の集大成といえるチクルスであった。

欲をいえば,もう少し陰影が濃く,彫の深い演奏であれば申し分ないのだが。しかし,それは堤のアプローチと根本的なところで相容れないのだろう。この演奏にこれ以上の彫琢を加えようとすれば,楽器や作品との無意識レベルでのコンタクトが途切れてしまう恐れがある。

また,組曲第6番の演奏には若干不満が残る。この作品を5弦のチェロによる演奏を聴いてしまうと,4弦のチェロによる演奏ではこの曲の魅力を充分に表現できないことがわかってしまう。いくら演奏技術が進歩しようとも,どこかで無理をしたり,誤魔化したりせざるを得ないのが実情だろう。4弦のモダン楽器では,演奏技術上の困難が音楽的な表現を損なってしまう面は覆うべくもない。そのことを承知のうえで,あえて現代チェロでこの作品に挑むアプローチもまったく理解できないわけではないが。

楽器をして語らしめる,作品をして語らしめる。言うは易く行うは難しの典型といえる目標である。堤剛の無伴奏チェロ組曲の演奏を聴いて,この言葉の意味をより深く理解できたように思う。自己を滅却して自然体で物事と向かい合う,ある意味で禅の精神が西洋の音楽にも通ずることを実証するような演奏会だった。

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