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2016年09月18日14:53

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古典四重奏団演奏会

【プログラム】
W.A.モーツァルト: ディヴェルティメント ニ長調 K136 第1楽章
W.A.モーツァルト: 弦楽四重奏曲 ト長調 K387 「ハイドン四重奏曲第1番」
       〜〜〜休憩〜〜〜
C.ドビュッシー: 弦楽四重奏曲 ト短調 Op.10

(アンコール)
C.ドビュッシー: 「亜麻色の髪の乙女」(前奏曲集第1集から)

古典四重奏団(QUARTETTO CLASSICO)
 川原 千真(第1ヴァイオリン)
 花崎 淳生(第2ヴァイオリン)
 三輪 真樹(ヴィオラ)
 田崎 瑞博(チェロ)

2016年9月10日(土),16:00〜,ふきのとうホール


ホールに入った途端,意外な光景を目にした。古典四重奏団の演奏会だというのにステージの上に譜面台が並んでいるのである。入り口で受け取ったプログラムを見ると,この公演はレクチャー付きのコンサートで,レクチャーのセクションでは譜面を見ながら弾くのだろうと納得した。そして,レクチャー・コンサートなら,モーツァルトの「ハイドンセット第1番」とドビュッシーの弦楽四重奏曲と演奏曲目が少ない理由もわかる。

モーツァルトのディヴェルティメントを演奏したあとに「二つの美」と題したレクチャーが続く。ここで取り上げられたのは次の4作品。
 モーツァルト  「ロンドンスケッチブック」よりK15−q(1764/ロンドン)
 モーツァルト  弦楽四重奏曲ト長調「ハイドン四重奏曲第1番」K387第3楽章より
 ドビュッシー  弦楽四重奏曲 ト短調 Op.10第3,4楽章より
 ドビュッシー  「牧神の午後への前奏曲」より冒頭
時折,弦楽四重奏の演奏をまじえながら,チェリストの田崎氏がモーツァルトとドビュッシーの和声構造の違いを中心に解説する。

まずモーツァルトが8歳のときに書いたピアノ作品と円熟期の弦楽四重奏曲を比べながら,ウィーン古典派の代表的な作曲家のひとりが,どのようにして和声を完成させたのかを説明する。簡潔だが美しい旋律を引き立てるのが古典派の和声の役割だったというのが話の趣旨である。次にモーツァルトとの対比でドビュッシーの和声がいかに複雑で拡張されたものであるのかという解説が続く。ロマン派の和声をワーグナーが無調の領域まで一気に拡大し,それを引き継いだのがドビュッシー。その意味で現代音楽の創始者であるといった内容の話であった。

実例を織り交ぜながらモーツァルトとドビュッシーの和声の成り立ちを第一線の演奏家に解説してもらうと,分かり易いことこの上ない。演奏家らしい(学者や評論家のように過度に理屈っぽくない)簡にして要を得た説明に加え,実際の響きを聴くことが,和声の構造を理解するうえで不可欠であることをあらためて痛感する。譜例や言葉の説明は,響きの鮮明なイメージがあってはじめて意味を持つことを再s認識した。

また,西洋音楽における和声の変遷を大づかみにたどるために,モーツァルトとドビュッシーを対比させるという目の付け所も秀逸だ。ウィーン古典派とフランス近代音楽の和声を並べて直接比較することで,その違いがいっそう鮮明になる。さらに,このような切り口で比較を行うことで,古典派の機能的和声法が無調や十二音へと変化する筋道が見えてくる。そればかりか,それぞれの時代の美意識や,さらには音楽に和声が必要な理由さえも分かるような気がしてくる。

さて,古典四重奏団の演奏についてであるが,暗譜で弦楽四重奏曲を演奏する利点を最大限に活かした,弦楽四重奏の理想に近い演奏を堪能できた。譜面に頼ることは演奏者の負担を軽減する効果がある反面,緊張感を欠いた安全運転に陥るリスクが避けられないことを思い起こさせた。物事を記憶することは,それを自分が心底納得できるやり方で表現できるまで消化吸収することを意味する。解釈についても表現についても一点の曇りもないまでの明確さが要求され,それを4人のメンバーの間で共有する精神的なエネルギーはいか程か,想像しただけでも気が遠くなる。一方,こうしたアプローチで求められる集中力や自発性が演奏に反映していない訳がなく,また,4人の弦楽奏者が互いの音を聴き合うことから生まれるアンサンブルは緊密で精緻この上ない。究極の弦楽四重奏たる所以だ。

このカルテットならではの一般的な特徴に加え,モーツァルトとドビュッシーでは,それぞれ独創性ゆたかな表現が注目を引いた。「ハイドンセット第1番」では,かなりロマン派寄りの音色が目立ったように思う。古典派の弦楽四重奏曲,それもハイドンに献呈した作品にしては濃厚な色彩感に富んだサウンドだったように感じる。この曲の演奏では,ノン・ビブラートでフレーズの中程が膨らんできこえる古楽器の奏法を採り入れたことが,その主な原因ではないかと推測する。弦楽四重奏曲を演奏する際は古楽器を使用していないが,メンバー全員はピリオド楽器も使いこなせる。その経験を生かして,モーツァルトでは古楽奏法を採り入れたのではないだろうか。ただし,「ハイドンセット」をモダン楽器で弾く際に古楽奏法を採用すると,わずかだが違和感をぬぐえない。これは個人的な好みの問題でもあるのだろうが。

ドビュッシーの弦楽四重奏曲では,ビブラートを利かせたモダン楽器の奏法に変わる。豊麗でありながら繊細な響きで,ドビュッシーの音楽を織り上げてゆく。この作品を演奏するときの響きは,ドビュッシーのオーケストラ作品よりもピアノ作品に近く,透明感があるとともにある種の官能性さえ秘めているようなところもある。モーツァルトでは邪魔になった感がなくもない響きの濃厚さが,ドビュッシーでは世紀末の退廃感やワグネリアンだった作曲者の過去を焙りだす効果を発揮していたように感じた。なによりも,精緻極まりないアンサンブルが,この作品の性格を浮き彫りにする。これまでに聴いたドビュッシーの弦楽四重奏曲の演奏のうちで,最も納得のゆくものである。思わず興奮を覚えるとともに,作品の世界に引き込む魅力を持つ演奏である。

古典四重奏団のレクチャー・コンサートを聴いて深い共感を覚えたのは,このアンサンブルが聴衆に弦楽四重奏曲の醍醐味を知らしめることを使命とし,それに正面から取り組んでいる姿勢である。より幅広い層にこのジャンルを普及させるために必要なのは最高の演奏を届けることだという信念に全面的に賛同する。それと同時に音楽をより深く理解するためには知識も必要で,その普及にも労を惜しまない態度にも感銘を受けた。事実,彼らが主催するレギュラー・コンサート5本のうち,3本までがレクチャー付きであるとのことだ。

この課題の解決に特効薬はなく,地道に努力を積み重ねる以外にないが,それが一番の近道であることも確かだ。演奏会に通うことで,彼らを応援することにしよう。

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