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2016年09月06日10:03

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教えてはいけない「いただきます」



中矢伸一さんの「ついに始まった大禊払い」(ヒカルランド)より。

渡部昇一さんが出された「国民の教育」(産経新聞社)を読んでビックリしたところがある。それは、今の公教育では、食事の際に「いただきます」を言わせないところが少なくない、という箇所だ。「いただきます」と言わせるのではない。言わせないのである。

「いただきます」と感謝の祈りを捧げることは、子供の思想信条に干渉し、また宗教の自由に反するからタブーになっているのだという」(渡部氏・同著)

読者は信じられるだろうか。しかし、フィクションではなく、事実のようである。

ひと昔前は、合掌して「お父さん、お母さん、お百姓さん、ありがとう」と言って感謝の思いを捧げ、「いただきます」で初めて食事に手をつけたものだ。

この食事を自分に与えてくれた人、調理してくださった人、食べ物を育ててくださった人、そして、天地一切の恵みに、感謝の思いを捧げる。そのどこがいけないというのだろうか。

日教組の退廃ぶりにはあ然させられるが、ここまで来るともはや頭がおかしいとしか言いようがない。

「いただきます」が宗教的行為だからダメという。結果的に、目に見えないものに対して「感謝」してはいけないということになる(世の中で本当に大事なもの、価値あるものは
“目に見えないもの”なのに!)。

そんな教育を受けた子供たちが感謝のできない人間になるのは当然だ。

狂人が教える教育だから狂人が育つ。自分のことしか考えず、人の気持ちなどどうでもよい、そんな人間になってしまう。

こんなことで良いのだろうか。良いわけがない。もし右の話が事実であれば、良識のある日本の保護者たちは各学校に猛然と抗議すべきである。

ちなみにこの「いただきます」に相当する言葉は、英語にはない。「この食事をお与え下さり感謝します」とか、説明的な表現を取ればある程度近い言い方はできる。敬虔なクリスチャンであれば、食事前に神に祈りを捧げるだろう。

しかし、「いただきます」というのは、端的に食事に際して感謝を捧げる、簡潔にして美しい日本語なのだ。

私はこのことを留学時代にアメリカで体験している。
夕食では家族全員が揃って食事することが習慣だったキリスト教徒だったが、敬虔に祈りを捧げるほどでなかった。とくに何も言わずに雑談しながら“Let’s eat ! ” などと言って食べ始めたものだ。

ある日、ひょんなことから「いただきます」という日本語を彼らに教える機会があった。そうしたら、その「イタダキマス」に相当する言葉はたしかに英語にはない。これはとてもいい言葉だ、みんな食事の前に言おうじゃないか、ということになってしまった。

それから家族全員でよく食事前に「イタダキマス」と日本語で言うのがはやった。ちゃんと合掌して言ってくれることもあった。

日本のことをよく知らないアメリカ人の家族であったが、私の拙い説明でも、これはすばらしい言葉だ、と感じ取ることができたのである。

それなのに、日本の公立学校では「いただきます」を子供たちに教えてはいけないことになっているとは、何と恥ずかしいことか。

事態がここまで来れば、渡部先生の主張するように、私塾のようなものをどんどん作って独自の教育を施すしかない。学校なんか行かせたらそれこそ本当に狂人に仕立て上げられてしまうかもしれない。

「いただきます」でさえダメというのでは、神棚を祀って朝夕おまいりしましょう。地元の鎮守様を大切にしましょうなどというと教師が言い出したら、それこそクビが飛ぶというものだろう。

子供たちの霊性は、かくしてどんどん破壊されていく。
間違った欧米型栄養学による「食」の乱れは子供たちの血を汚し肉体を蝕んでいるが、教育者による子供たちへの精神への破壊的行為もすさまじい。

教育にも「生かす教育」もあれば、「殺す教育」もある。私たちは「生かす教育」を目指さなくてはならない。



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