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2016年08月14日02:24

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平和な世界は達成できるのか?


 太平洋戦争終結から、ほぼ71年が経った。
 少し、平和について考えてみたい。

 太平洋戦争の、終結そのもの、は明確ではない。
 ポツダム宣言の受諾で、戦争は終わる、という予感さえあれ、
 それが戦闘の終結を意味するものでなかった。

 現代では、広く知られていることではあるが、8月8日のソ連軍の侵攻後、
 戦場は主に大陸と北方領土に拡大していく。

 勿論、本土では、終戦に駆け込むように空襲が行われる。
 この、空襲には戦術的な意味合いは、ほとんどない。
 引用の秋田の空襲もそうだろう。
 現場の指揮官や、兵士たちが、その戦略的意味合いを知るのはずっと後のことだろうと思う。
 勿論、戦術的意味合いがない、とわかっていて爆弾を落としているものはあまりいなかったはずである。

 本土上空を守るための戦闘機はほとんど壊滅してしまっていて、
 レーダーに空襲する機影が映ってから、戦闘機を飛ばしたとしても、残存戦力では高度を稼ぐことも出来ずに迎撃行動がとれないのが実情。
 現代の戦闘機のような、急上昇ができる性能が、当時の飛行機にあったわけではない。
 勿論、レーダーの性能自体が悪い。
 日本では、レーダーの開発が重要であることが余り認識されなかったからである。


 また、そもそも、船や飛行機を動かすためのガソリンや軽油がほとんど残っていなかったのも実情である。このころ、燃料を何処に優先して回していたのか、というと、大陸との物資輸送のシーレーンである。

 沖縄が降伏していて、台湾やさらに南のルソン島とも海上で連絡が取れない状態となっていては、南方からの物資輸送は無理。本土で生活する人々が飢えないためには、大陸との連絡は維持しなければならない最大の防衛ポイントだったはず。


 だが、大陸側がそれどころではなくなっている。
 侵攻してくるはずのないソ連が、参戦して民間人まで襲ってしまう。

 当時、満州にいた父から、私が小学校の頃に聞いた話。

 「ソ連軍は、女性を裸にして、殺してしまう。」
 という話が皆に伝わっていた。

 すでに本土の人たちが飢えと戦っている状態でありながら、物資自体が不足していたわけではない満州で、風雲急を告げる出来事だった。
 祖父母と父は、貨物列車に身体だけ乗り込み、朝鮮半島経由で日本への帰還を目指した。
 その際に、多くの苦難があったはずだが、それを切り抜けて、まだ未就学児だった父を連れて祖父母が日本に到達できたのには、並々ならぬ努力があったことだろう。


 アメリカ合衆国が停戦したのちも、ソ連の侵攻が止まっているわけでなく、総崩れの関東軍がどの程度戦闘を行えたのかわからないが、千島列島では占冠島の防衛戦に勝利するなど健闘が見られた。

 だが、結果として、現在は朝鮮半島の真ん中に軍事境界線があり、
 北海道の東側は、領海でありながら、船が入ると拿捕されてしまう領域となっている。


 こうした状態で、引用の秋田空襲も行われている。
 この空襲に戦術的意味は何もない。

 ポツダム宣言の受諾は決定的であり、戦後処理における米ソの駆け引きも、原子爆弾の実用化によって、おおよそ方がついているのである。とはいえ、ソ連がここまで露骨に領土拡大を目指した戦争を継続するとは、余り予想できなかったのだろう。ソ連の侵攻に米軍が介入はしていない。
 
 太平洋戦争で大きな代償を支払ったアメリカ合衆国に、その時点で、共同戦線を張ったソ連を敵対関係として、戦闘を続けることは無理だったと考えられる。

 アメリカの代償とは、太平洋での日本の行動を余りにも軽く見すぎていたことだと良く指摘される。その結果、当時はほぼ植民地的なエリアだった、フィリピンを完全に失い、オランダはインドネシアから撤退、連合王国も東アジアから撤退という状況になる。
 ここには、日本が船で飛行機を運んで、「空襲する」 という、当時としては戦術論として議題にすら上がらなかった方法で、太平洋艦隊が全く動けなくなってしまう、という誤算があったからに他ならない。

 その結果、東アジアで、一時的にせよ日本の独壇場が生まれ、戦線はオーストラリア付近にまで拡大していく。


 その余波が、日本の主要都市は、ほぼすべて壊滅させられる、ほどの空襲を受ける結果となってしまった。早い段階で講和ができれば、沖縄も戦場になることは避けられただろうし、本土への空襲も多くの人々が家を失ってしまう、という状況にはならなかったはずである。

 日本が講和を進めるうえで、間に入ってもらおうとしたのがソ連だったのだが、ソ連の考えは全然違っていた。まず、ドイツに反撃し、東ヨーロッパを手中に入れておく。
 次いで、戦線をアジアに移し、こちらでも広い領土を確保する。 と言ったもの。

 実際に、共産圏として、朝鮮民主主義人民共和国が独立、中国では共産党政府が現在でも実権を握っている。モンゴルはほぼ植民地的な立場となり、ベトナムでもほぼ全域が共産党政権へと転換した。


 ただ、この戦争を経て、71年間、平和な時代が続いた。
 日本軍が破れ、一度は完全に解体された。
 さらに、軍部が勝手に動けない法制化が行われた。
 そのため、現在でも、世界最先端に近い武装を持っていても、他国との交戦には至ってない。


 一方で、世界の情勢は容易ではない。
 戦争が終わらない国々が多い。
 残念なことではあるが、戦争の終わらない国が直面している問題は、太平洋戦争の原因となった資源の奪い合いである点は、71年経っても変わっていない。

 日本が平和になった代償、と言えるのかどうかわからないが、世界の国々であまりにも長い戦争が続いている。地球の人口が爆発的に増えて、戦争の犠牲者もまた増加し、若者が生活の糧を求めて自ら銃を取る。

 この、悪循環を断ち切らない限り、日本だけが平和、と言ってもいられなくなる。
 私たちの生活を支えているものが、海外からの資源が安定に供給されていること、の条件に成り立っているし、国内の産業が単純な内需で創出されているわけでもない。

 これまで恩恵が享受されてきたからと言って、これからも同じようにできるわけでもない。

 未だ、戦争が続く国々で、まず停戦にもっていく必要はある。
 そのためには、軍隊が受けている資金的な援助を断ち切ればよいのだが、勝てば資源が手に入る勢力は、なんだかんだと裏から回ってお金を入れる。

 それで、結局若者は、銃をとって戦う選択肢を歩んでしまう。
 勿論、もっと他に、命の危険も少なく、それなりの実入りのある仕事があればよいのだが、戦争で荒廃してしまっている状態で、新しい産業と言っても、簡単には根付かない。
 結局、戦争による略奪が慢性化する。


 日本が太平洋戦争を戦っているとき、
 海外の人から、早く戦争をやめて、産業の創出による経済の打開を目指すべき、
 という助言は当然あっただろう。

 けれども、それに耳を貸すようなことができたろうか?

 あるいは、日本の社会が許してくれただろうか?

 そう、考えてみれば、戦争の続く国で、容易に戦争終結に持っていけないのは、割と理解しやすいかもしれない。


 日本が戦争に突入していったとき、実際にはアメリカ合衆国では、「平和」 が維持されていたわけである。アメリカはまだどこの国とも交戦しておらず、戦争などやらなくてもやっていける選択肢もあったはずだろう。

 けれども、戦争をしてしまった。

 冷静に考えて行動すれば回避できた戦争ではなかったろうか?

 私たちは、今、この時代で、やはり冷静に考えて、人が人を殺してしまう、愚かしい戦争を、最大限回避する方法を模索し続けなければならない。

 できることは、防衛予算を増やす余地があるのなら、その費用を先回りして、平和維持のために使えないかを考える事であろう。

 どこまでも北朝鮮に経済制裁を与え続けても、そう簡単に状況は好転しない。
 話し合いの中で、軍事的な実験をやめて、代わりに新しい産業の創出に協力する、という交渉は無駄ではなかろう。

 中国には、民意に、現在の共産党政権の在り方がおかしい、と思わせるような、正しい情報の提供はそう難しくないはずである。
 中国国民が、わざわざ紛争の種を作るような軍事行動を行う政府を批判する民意を持てるような価値観を学んでもらうことは困難なことではないはず。
 選挙やその他の方法で、平和への道を模索できる可能性もある。


 外交努力は、政府にせいぜいやってもらうとしても、私たちにも個人レベルの付き合いの中で、平和な地球を目指す方向性を広げていくことは全くできないわけでもない。

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■「最後の空襲」伝える倉庫解体へ=一部移築も、惜しむ声―秋田
(時事通信社 - 08月13日 15:01)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=4&from=diary&id=4141753

 終戦前日の1945年8月14日深夜から15日未明、秋田市土崎地区で250人以上が死亡した「土崎空襲」。この「日本最後の空襲」で被害に遭った建物のうち、唯一現存する倉庫が、老朽化を理由に解体されることが決まった。一部は移築して展示されるが、空襲の体験者らは貴重な戦争遺跡の解体を惜しむ。解体前に見学に訪れた若者らは「後の世代に伝えたい」と決意を語った。

 「被爆倉庫」は米軍が標的にした旧日本石油秋田製油所内にあり、爆撃時の高温でコンクリートが焼けただれ、鉄骨がむき出しになっている。戦時中はタンクを置く施設だったとされ、戦後、残った部分を利用して2階建て倉庫に改築された。

 被爆から71年を経て、屋根が破損するなど傷みが激しくなり、所有する秋田市は現状維持が困難と判断。来年2月ごろ解体に着手し、柱9本や梁(はり)、天井など一部を近くに新設する歴史館に移すことを決めた。事前調査のため今月15日以降は見学ができなくなる見通しだ。

 4歳で土崎空襲を体験し、小中学校などで語り部活動をしている伊藤津紀子さん(75)は、「訪れることで空襲の惨状を体感できる倉庫が、一部を残してなくなってしまうのは悲しい」と表情を曇らせる。

 解体前の姿を一目見ようと、このほど秋田大の学生ら約40人が見学会を行った。参加した同大大学院生の野坂奨さん(23)は「コンクリートが溶けた内部を見て、爆撃の悲惨さを強く感じた」と衝撃を受けた様子。解体を惜しみつつも、「戦争体験者から話を聞いたり、当時の建物を直接見るのが難しくなる今後は、撮影した写真や動画で見る人の目に訴えたり、見聞きしたことを自分たちが後の世代に伝えるのが大事かもしれない」と話した。 
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