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2016年08月11日11:28

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「魂との対話」なぜ私たちは破壊しつづけてきたのか? 

 

ゲーリー・ズーカフ「魂との対話」は、全米で300万部を超えた驚異的なロング・ベストセラーです。私たちは、なぜ生きているのか? 魂とは、いったい何なのか? とあらためて深く考えさせてくれます。以下、適宜抜粋しながらまとめました。
http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/daiyogen49.html#

なぜ私たちは破壊しつづけてきたのか?

畏敬の念は、私たちに、異なった種間の相互依存の実態を、より包括的で思いやりに満ちた観点から見させてくれる。それは私たちに、それぞれの生き物の大切さをハッキリとわからせてくれるとともに、思いやりに満ちた宇宙の発展的な営みまでをも、かいま見せてくれるのである。

もし私たちがこの認識をもっていたならば、私たちの内側で残虐な反応、あるいは破壊的な反応が発生することなどまず考えられない。なぜならば、この認識は、いついかなるときにも、あらゆる生命の大切さを私たちに語りつづけるにちがいないからだ。

しかし残念なことに、私たちは畏敬の念をもたなかったため、真のパワーの獲得に向けた私たちの旅には、生命に危害を加える体験が頻繁に含まれていた。そこには、常に加害者と被害者が存在し、私たちはいわば、生命について学びながら生命を破壊し続けてきたのである。生命が破壊され、いたぶられ、残忍な取り扱いを受け、飢えを強いられ、傷つけられてきたのは、私たちが畏敬の念をもっていなかったから、つまり生命の神聖さを、ほんとうには信じていなかったからにほかならない。

もしも私たちの種のなかに、ひいては私たち一人ひとりのなかに畏敬の念が根づいていたとしたら、これまでに発生した人間の生命の破壊、植物の生命の破壊、動物の生命の破壊、さらにはこの惑星の破壊も、大幅に防げていたことだろう。あるいは皆無にさえできていたかもしれない。

破壊のなかにも、もちろん学習はふくまれている。しかしながら、暴力や破壊にかかわることで手にするカルマ的負債には、とてつもなく高価な支払いが待っている。言い換えるなら、私たちには誰かの生命を犠牲にしてまで何かを学ぶ必要などない、ということである。自然を破壊してまで進歩を果たす必要も、どこにもない。
 
しかし、生命に対する畏敬の念なくして、誰が生命の破壊を気にするだろう。畏敬の念がなければ、生命はまるで安物の日用品である。私たちの惑星上で、生命はまさにそのとおりに扱われている。ここではいま、進化のプロセスとその神聖さがまったく無視されている。
 
私たち人類はこれまで、畏敬の念とともに生命を眺め、畏敬の念とともに自分たちの進化のプロセスを理解する、という作業を怠ってきた。もしそれを行なっていたとしたら、いまごろ私たちは、人生、すなわち生命の物理的な体験に感動を覚えつつ、この上なく深い感謝の念とともにこの地球上を歩いていただろう。

しかし現実には、この地球を歩く無数の人間が、痛み,絶望、落胆、憂鬱、飢餓、病気などの体験に打ちひしがれて、ここに生まれてきたことを嘆いている。この惑星はいま、これらの体験で満ちている。人間活動の大半が畏敬の念をもっていないことこそが、その主な理由である。



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