『「原因」と「結果」の法則』の本の第1章「思いと人格」の全文について坂本貢一氏と船津洋氏の著書で併述します。理解がより深まると思います。船津洋氏は原書の直訳文で、( )
書きにしています。
思いと人格(思考と人格)
「人は誰も、内側で考えているとおりの人間である」という古来の金言は、私たちの人格のみならず、人生全般に当てはまる言葉です。私たちは、文字どおり、自分が考えているとおりの人生を生きているのです、なかでも人格は、私たちがめぐらしているあらゆる思いの、完璧な総和です。
(「人は心で考えている通りの人間である」ということわざは、人の存在のすべてを包含するのみでなく、その完全さのゆえ、人の人生におけるあらゆる状況や境遇に作用している。人は、文字通り自ら考えている通りの人間であり、人格は自らの思考の集大成なのである)
植物は種から芽生えます。それは種なくしてはあらわれることができません。そして、私たちの行いもまた、内側で密かにめぐらされる思いという種から芽生えます。これもまた、その種がなければあらわれることがありません。意識的に行うことも、無意識のうちに行うことでも、ひとつとして例外はありません。
(草木から種子が芽生え、種子なくして芽生えることができないように、人のあらゆる行いは思考という秘められた種子から芽生え、それなくして発生しえないのである。それは無意識的で偶発的と呼ばれる行いと、熟考の上で実行される行いのどちらにも同様にあてはまる)。
心の中の思いが 私たちを創っている。
私たちは 自分の思いによって創り上げられている
(心の中で思うことが、私たちを創り上げた。
思考によって、私たちは自分自身を形づくり、築き上げた)。
私たちの心が邪悪な思いで満ちているとき
私たちには いつも痛みがつきまとう
雄牛を悩ます荷馬車のようにして
(人の心に邪悪な思いがあるならば、
牛の跡に続く荷車のごとく痛みが迫ってくる)
もし私たちが清い思いばかりをめぐらしたなら
私たちには喜びばかりがつきまとう
私たち自身の影のようにして
(人が純粋な思いのうちに耐え抜けば、
きっと、喜びが自身の影のごとくついてくる)。
私たちの人生は、ある確かな法則にしたがって創られています。私たちがどんな策略をもちいようと、その法則を変えることはできません。「原因と結果の法則」は、目に見える物質の世界においても、目に見えない心の世界においても、つねに絶対であり、ゆらぐことがないのです。
(人の成長は法則の中では必然であり、自然による無作為の創作活動の結果ではない。原因と結果は、秘められたる思考の領域においても、目に見える物質の世界同様に、絶対的かつゆるぎのないものである)。
私たちの誰もが内心では手にしたいと考えている、気高い神のような人格は、神からの贈り物でもなければ、偶然の産物でもありません。それは、くり返しめぐらされつづけた、気高く、正しい思いの、自然な結果です。
(気高い神のような人格は、恩恵や偶然によるものではなく、正しい考えを抱き続ける絶え間ない努力による自然な成果であり、長年いつくしまれてきた神のような思考との結びつきの結果なのである)
そして、卑しい獣のような人格は、卑しく、誤った思いの、やはり自然な結果です。
(あさましく残酷な人格は、あさましい考えを心に抱き続けたことによる成果なのである)。
私たちは、自分自身の思いによって、自分をすばらしい人間に創りあげることもできれば、破壊してしまうこともできます。心という思いの工場のなかで、私たちは、自分自身を破壊するための兵器をつくりつづけることもできますし、強さと喜びと穏やかさに満ちた美しい人格を創るための、優れた道具をつくりつづけることもできるのです。
(人は、自身によって作り上げられ、破壊される。人は自身を破壊する武器を心の中に作り上げる。また喜びや強さ、そして安らぎに満ちた美しい豪邸を自分自身に築くための道具も作り上げるのである)
正しい思いを選んでめぐらしつづけることで、私たちは気高い、崇高な人間へと上昇することができます。と同時に、誤った思いを選んでめぐらしつづけることで、獣のような人間へと落下することもできるのです。そして、その両極端のあいだにはさまざまなレベルの人格があり、人間はまた、それの創り手でもあり、主人でもあります。
(思考の正しい選択と使用によって、人は神々しい完成の極致へと高まり、思考の乱用や誤用により、人は獣以下のレベルまで堕ちてゆく。これらの両極端の間には、あらゆる階級の人格が存在し、人はそれらの形成者であり主人なのである)
私たちの魂に響くあらゆる美しい真実のなかで、次の真実ほどに私たちを喜ばせるものはありません。そのなかには、私たちに対する神からの信頼と約束が込められています。
「人間は思いの主人であり、人格の制作者であり、環境と運命の設計者である」
(この時代になって復活し明らかにされてきている、魂に関するあらゆる美しい真実の中でも、神との約束と信頼においてこれ以上喜ばしく実り多い真実はない、人は、思考の主であり、状況や境遇、そして運命の製作者であり作成者である、ということである)
私たち人間は、強さと知性と愛を備えた生き物です。と同時に、自分自身がめぐらす思いの主人なのです。
私たち人間は、人生で直面するどんな状況にも賢く対処する能力と、自分自身を望みどおりの人間に創り上げるために使うことができる、変容と再生のための装置を内側にもっています。
(力、知能、愛の存在として、自己の思考の君主として、人はあらゆる状況のかぎを握り、自分の望む自身の創造を可能とする変容と再生の媒介を有するのである)
私たちは、たとえもっと弱い、もっと落ちぶれた状態にあるときでも、つねに自分自身の主人です。ただし、そのときの私たちは、自分の所帯を誤っておさめている、愚かな主人です。
(たとえもっとも弱く、自縛自棄の状態にあっても、人は常に自身の主人である。しかし、弱さと廃退にあるとき、人は自らの「家庭」の治め方を誤った愚かな主人である)
私たちは、自分の人生に深く思いをめぐらし、それを創り上げている法則をみずからの手で発見したときから、自分自身の賢い主人となり、自分自身を知的に管理しながら、豊かな実りへとつづく思いを次々とめぐらすようになります。そのときから私たちは、自分自身の意識的な主人となります。
(自らの状態を熟考し、自身を成立させている法則を熱心に捜し求めれば、人は賢い主となり、自らの力を知的に管理し、有益な成果をもたらす思考を創り出すのである。それは意識的な主であり、)
でも、私たちがそうなるためには、まず、自分の内側で機能している「原因と結果の法則」をはっきりと認識しなければなりません。そしてその認識は、みずからの試みと経験と分析よってのみもたらされます。
(自分の心の中に思考の法則を見出すことによってのみそうなるのである。この発見は完全に、使用法、自己分析、そして経験の問題なのである)
黄金やダイヤモンドは、ねばり強い調査と試掘のあとで、はじめて発見されます。そして私たちは、自分の心の鉱山を十分に掘り下げたときに、はじめて自分自身に関する真実を発見できます。
(よほどの探求と採掘によってのみ、黄金やダイヤモンドは得られるものであり、もし自身の魂の奥深くまで掘り下げれば、人は自分自身の存在に関連するあらゆる真実を見出すことができるのである)
もしあなたが、自分の思いの数々を観察し、管理し、変化させながら、それらが自分自身に、またほかの人たちに、さらには自分の人生環境に、どのような影響をおよぼすものなのかを入念に分析したならば・・・・忍耐強い試みと分析によって、日常的で些細な出来事をも含む、自分のあらゆる体験の「原因」と「結果」を結びつけたならば・・・・「人間は自分の人格の制作者であり、自分の環境と運命の設計者である」という真実に必ず行き着くことになるでしょう。
(自分の考えを見守り、支配し、改め、それが自分自身や他の人々、そして自らの人生事情にどのような影響を与えるかを突き止め、根気強い実行と調査によって原因と結果を結び付ければ、人は自分が自身の人格の形成者であり、自身の運命の建設者であることを紛れもなく証明するのである)
人間にとって、自分自身に関するこの真実を身をもって知ることは、悟りであり、知恵とパワーの獲得にほかなりません。
(人は単純に、最たる些事に至る自らのありとあらゆる経験を、自身に関する理解を勝ち取るための手段として役に立たせるだけである)
「求めよ。さらば与えられん」あるいは「扉はそれを叩く者に開かれる」という絶対法則は、ほかのどんな方向にでもなく、この方向にのみ存在しています。知恵の寺院の扉は、忍耐とあくなき探求なくしては、けっして開かれることがないのです。
(他でもない、この手段の中にのみ「求めよ、さらば与えられん:門を叩け、さらば開かれん」という絶対法則は存在するのである。忍耐、実行、そして絶え間ない探求によってのみ、人は知識の神殿の扉をくぐることができるのである)
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