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2016年06月13日23:01

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人との関わり

百人いたら、僕が人とかかわったりするのが不可能になる。眼の前の人を理解することが不可能になる。ただ話が苦手で、ひきこもりで明日を夢見て共に歩もうとした時に目の前にさすがに百人いれば、みんなに目線を行き届かせるのは不可能だし、それをしなくても良い空間になるだろうから、だったらきっと僕は話さないでいいことになる。そうじゃない。そこに行った限り、少しでも前に進み互いに刺激をしあう。僕がきっと進めないし、進んだあとに人をおもう僕であって、それでこそ人との関わりとしたいところがあったり、隣に偶然現れる人よりも、共に乗り越えたほうがよくって相手がどう思って、なんで困っていて、何をしてあげられるかをきちんと把握できるには流石に人が多すぎであって。その、病気、同じ困ったことを抱える人間を百人集めても、それがまずもって僕にとって不可能であるし、ミクシイで、ラインで、フェイスブックで人と係る方法はいくらでもある。そのどれもがやはりハードルは高く、まずネットというのがハードルが高い、メールをした時点で書き込みをした時点で晒し上げに合うとかそういった傷つく可能性とか、それらは安易に書けるものではないから。人っ子一人と関わるだけでも、それは命がけであるのの、ある種百倍の悩みがあそこにあって、もっと根本的にやれることは他にある。僕がどこかに連絡した時点で共に歩んで共に悩むことも有るだろう。人が多くって仲間が多いことは重要だけども、仲間が多くって例えばひきこもりが百万人集まった所で、僕は何も変わらなくって結局有るのはそこで頑張って参加しましたっていうだけであって。レベルが高い上にこんだけ人を集まっていても僕が立ち直る想像ができないっていう。まずそれらを判断する上で数百人もいて僕がそこで例えばきちんとした会話をこなせて、それで立ち直れるかって言えば、それら数百人を把握もできなければ個々の努力になってしまうのだったら何か違って。
僕が話すのは、話すという盾を作り僕が話すのが苦手という事実に蓋をする行為になるのは、僕が根本の感情が変わらないから。いくら話しても虚しいし、僕が話したいものは話せば話すほど離れていく。そういうことだとおもう。僕は話すと共に人に恐怖を持っているのはやはり違うし、そもそも話す理由とか話したいとおもう感情でなくってそういった根本的なところから進むのでなくって人と話さなきゃいけない空間から始まっているのなら、いつも物事に追われるところから始まって楽しみでない。僕はそれによって嘘をつき続けるならそれは解決ではなくって。僕にとって、その多い人数の所に参加するよりも、それを恐れるほうが、身を守り僕が相手と関わる上で重要であったり。それに参加して僕が死ぬ気で努力したとしてそれによって僕が臨んだ話すというものは得られない。
そもそも、人はたまたま現れた完成形を望むし、相手が華から十の人間を望むかもしれない、他人は自分に合った性格の人間を選ぶだろうし、目の前で合わなければすぐに捨てるだろう。でも、僕が相手を思ってその関係を構築してそれらでこそ何かができたり、目の前に望むものは本当は転がり込んだものでない気もする。結局互いの努力というか意識は必要になる所はあって。と言うか僕はそれが出来ないしそうやって個々の努力にされたりそういうのがなにか嫌だったり。他人が多すぎて目線が行き届かないような。僕が例えば何か知らない人に連絡するのも一苦労ならそれらを例えばした他人を思いやるしそれによって相手が進めるであろうことに全力をかけて悩んで。僕は僕が立ち直るのは僕だけでなやむには限界があるから共にそれと同じように相手のことで悩んだり。
いくら相手が傷ついたということを想像したって、したってキリはないけど考えない訳にはいかないと思ったり。僕が相手が僕と合わないことも想定して例えば相手が言葉がきつい人間だから相手との関わりを避けようと思っても、その人と関わるからなにか分かったり、好き嫌いは高々僕の好き嫌いで。それを乗り越えることが出来たり。
僕は、ネットとか怖いし人の多い空間が苦手だしだからこそ、人と話すのが苦手な人とともに話をうまくなりたいと思うなら、僕は明日どうすればそれができるだろうと悩むしそれはともに歩む人がどうすれば悩まないだろうとも思うから、はなから完成されたもので誰かが切り捨てられてしまうと、僕がそもそもつくり上げるものが見えなかったり。
始めっから僕は0であって、人と関わろうとして相手に僕の望む性格で完成形を望めるほど人との関わりはうまくもないしそれらを出来もしない。僕はこういう人と関わりたいと選り好みをするけども、それらをせずにせめて関わってせめて相手に気を使って嫌われない程度の努力はして。その上で妥協しあって共に歩んで。少しずつ、歩みたいけど、僕が一生懸命気をつけても相手は足りないというし、歩き方が偉そうだでもしかしたら怒られて、一方で妥協はすることがないというから。望まれるのはいつも高い段階であって
きっと、相手は別に人と大勢関われるから、友が百人いるわけじゃないんだ。それでも、地域という単位は、その目線やそれをある程度よりワケすることによって、そのクオリティーを保ったり、簡単に選り好みが出来ない点で優れているけど、人は遠くの人と合うことが出来るから、僕はその人と分かり合うことはないんだと思う。
確かに素晴らしい、自分の好きな所を選べて人と沢山関わることも、田舎はその人の経験によって閉鎖的である一面を持つ。でも、人が多くって好きな所を選ぼうとしたって人が多くなった所で結局田舎と大差はなくって。人が多くなたって、その少ないところと得られるものは大差がなくって
言葉でいつも語られるけど、本当は言葉ってどうだっていいもので、本当は僕の気持ちを伝えるツールだと思う。言葉を知っているのは、今の気持ちを伝えるすべを人より知っているにすぎないんだとおもう。だから僕が馬鹿だからどうのでなくって、それでも伝えたい事は一つで同じだとおもう。
だから言葉って僕の中でどうだってよくって感覚が伝わりゃいいなと思う。辛いとか苦しいとかその微細なものが
もっと、話すのが苦手ということには意味があって。それを無理やり治そうじゃなくって相手を思いやって、足りない。絶対に足りない所があって。わからないけど、人を多くすればとか実績がどうだとかじゃなくって。問題は解決しないかもしれないけども、だからこそ未来を夢見て共に歩む未来を夢見て、人と話すのは一人では不可能だし、怖いのは消えないという結果は、根本であるから僕は結果一生引きこもりですと同じことを言われているわけな上で事は進んでいるけど、そもそも段階としてそれに疑問を呈したい
極端に言って、一言も言葉を発せない純粋さを持つ人とかネットで言葉を発せないこととか、そういったその関わることに変な曲がり方のない人を百人集めて、考えてみたいところはある。そもそも他人が話すことが疑わしい所があって。それらをもっとも逆にいるってことは、きっと誰よりその苦労を知っていることであるだろうし。今の方法が悩みに対して、根本は変わらないししかたがないということであると思うから。アプローチ的にそれを諦めるしかない結果が、人との関わりは無意味だにつながって。友というステータスだけのものになるんだとおもう。怖い上に僕には無意味で。そもそもだってそこに入るのが怖いんだもん。そのうえで僕の努力とされて上辺とは裏腹になおのこと内向的になっていくわけだから。だったら、相手が話さないでいいからこっちがある程度気を使うほうが良かったり。出来ないしそれって僻みなんだけど、人が数百人集まっても僕は今のこの怖さが消えることはないと思う。だから無意味
人との関わりというのにとらわれるのを一旦捨てて、今の自分の問題を思い浮かべて、働くことが嫌なこととか、それらにも言えることだけど。
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