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2016年06月11日07:49

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能動的なやさしさ


ゲーリー・ズーカフ「魂をめぐる物語」(サンマーク出版)からです。
雷がどこに落ちたかは誰にもわかりませんでした。調査隊がその付近に到着しときには、焼け焦げた数百エーカーもの荒地が横たわっているだけでした。勇敢な消防士たちの働きがなかったならば、おそらく数千エーカーが焼け野原になっていたでしょう。

かつての荘厳な森が、いまや月面を思わせる荒涼とした大地に姿を変えていました。黒焦げになった木の幹の残骸が、あちこちから突き出ています。そこに日陰が戻ってくるのは、何世紀も後のことになるでしょう。なおも煙がくすぶりつづける中、太陽の光が燦燦と降り注いでいます。炭の臭いが立ち込め、地面にはまだ相当の熱が残っていました。

そんな中、無数の種たちが、誰にも知られることなく灰色の土壌の上に散らばり横たえていました。それらの種のなかでは、新しい森が、古い森に取って代わろうとして静かに待っていました。
数千本の古い木々が、それら自身を火に捧げました。そしていまや、数千本の新しい木々が、生長する準備を整えていました。ゆっくりとした動作で、私たちの目にはとらえられないほどの、ほんとうにゆっくりとした動作で、より大きな絵が展開していました。

私たちに見えるのは、火事のみです。それは強烈であり、見落とされようがありません。上空100フィートの高さにまで届かんとする紅蓮の炎。数千エーカーもの大地を覆い尽して地平線をかすませる、濃厚な灰色の煙。しかしそれらはせいぜい数日で姿を消します。

私たちの目に見えない絵は、はるかにゆっくりと展開します。火事はその絵のほんの一部です。あなたが残りの充分に多くの部分を見るには、何百年も生きなくてはなりません。今回の火事の前の火事も見なくてはなりません。

今回の雷が落ちたときには、前回の火事の名残はもうどこにもありませんでした。そこにはただ、尾根から尾根へと延びる緑の樹海が広がっていただけでした。その森は、新しい森が成長しようとするのと同じ、焼け焦げた土壌から成長しました。火事が起こらなければ、木々の種が飛び散ることはありませんでした。種がなければ、木々は生えてきません。新しい木々が生えてこなければ、森は衰退するばかりです。

成長するのを待っている森は、燃えたばかりの森とは違うのでしょうか? 同じです。それらはまったく同じ森です。燃えたばかりの木々も、その火事のおかげで成長するであろう木々も、さらには、誰もが思い出しようのない、過去の度重なる火事のおかげで生長した木々も、すべて同じものです。

今日の私たちは、森林火災を防ごうとしています。人々が森のなかに住んでいたり、成長した木々を伐採して利用することが大きなビジネスになっていたりするからです。しかし、火事は森を脅かしません。森は火事を必要としており、それが発生するのは自然なことのなのです。人々は、雷が落ちるのは偶然の出来事だと言います。しかしながら、大自然をじっくりと観察したならば、決してそうでないことがわかるはずです。自然の観点からすると、すべてが、起こるべきときに、起こるべくして起こるのです。

乾いた土地に雨が降るのは、それが植物の成長のために必要であるからです。植物と雨は、どちらも、同じ絵を構成する重要な部分です。植物だけ、あるいは雨だけしか見ないことは、より大きな絵を見ないことです。それは、森林火事を見て、火事だけしか見ないのと同じことです。ほかの動物を食べている動物さえ、より大きな絵の一部です。

自然はいつも、必要とされているものを、必要とされるときに提供しています。必要とされているものを、必要とされているときに提供しつづけることは、「能動的なやさしさ」です。

絵の全体を見ることができれば

私たちの多くは、自然をやさしいとは考えてはいません。でも、それはやさしいのです。大きな絵を眺めさえすれば、自然のやさしさは歴然です。ときおり私たちは、宇宙もやさしくないと考えることがありますが、それも間違いです。自然も、宇宙もやさしいのです。

私たちは、身勝手な人たちや苦しんでいる人たちに焦点を当てているとき、大きい絵のほんの一部しか見ていません。もしも全体の絵を見ることができたとしたら、宇宙のとてつもないやさしさに驚かされることになるでしょう。

私たちには、全体の絵を見ることはできません。でも、少なくともこれだけは言えます。その絵には、ほかの人たちが含まれています。そしてもちろん、私たちも含まれています。よって、より大きな絵を見られるようになるための第一歩は、自分自身とほかの人たちを、よく見るようにしはじめることです。能動的なやさしさは、そこからスタートします。

心に多くの傷を負ってきた人たちは、一般的に親切です。彼らは、心の痛みがどんなものかを知っています。そのために、それをほかの人たちには体験させたくないと考えています。彼らは生命に危害を加えません。そこで私たちは、「彼らはやさしい」と言います。

しかし、能動的なやさしさは、強さと明晰さを伴っています。それは、ときには、話しにくいことを話すことであることもあります。あるいは、話したいときに話さないことであることもあります。それはまた、行動する勇気を示すことであることもあれば、行動しない勇気を示すことであることもあります。

能動的なやさしさは、もっとも妥当な心の姿勢です。それは、魂たちが魂たちとかかわるときの姿勢です。彼らはお互いを、地球で過ごすための衣服以上のものとして見ています。

あなたは、自分を愛される価値のない人間だと考えたりはしていないでしょうか?もしもそう考えているとしたら、それは、あなたの地球用の衣服が話していることです。その観点から物事を見ているとき、あなたの姿勢は妥当な姿勢ではありません。あなたのハートは、あなたにいつまでも言いつづけるでしょう。「あなたは、愛し、愛される価値のある人間です。あなたは美しい。そしてこの地上で学ぶ権利をもっている」

あるいは、もしかしたらあなたは、自分をほかの人たちよりも価値のある人間だと考えているかもしれません。だとしたら、その観点から物事を見ることも、妥当な姿勢ではありません。あなたのハートは言いつづけるでしょう。

「誰もが同じように価値があるんだよ。君より価値のある人間は1人もいないし、君より価値のない人間も1人もいない」
あなたは、地球用の衣服だけを見ているとき、大きな絵のほんの一部のみを見ているにすぎません。自分を含めたあらゆる人たちを、地球学校で学ぶ魂としてみるようにすることです。それによってあなたは、ずっと大きな絵を見られるようになります。

やがてあなたは、あなたの魂と調和して生きられるようになるでしょう。そのときから、あなたが話すことや行うことは、つねに妥当なものになります。それらはつねに、「必要とされるときに提供される、必要とされているもの」でありつづけるでしょう。それが能動的なやさしさです。
それは同時に、真のパワーでもあります。


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