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2016年04月02日00:08

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『土神ときつね』の考察 (中間報告)

先日3/26(土)第8回ワンコイン朗読会で朗読しました。
一本木の野原の北のはずれにある綺麗な女のカバノキにそれぞれ恋心を抱いている「狐」と「土神」の物語。結末は土神がきつねを捻り殺して終わります。
決してハッピーエンドではないこのお話の最後に、たとえティースプーン1杯分にも満たないほどの『救い』を表現することができたらと様々な試みをして日々の稽古でかなり格闘できた作品です。
今回この作品の朗読に関しては特に『原作の一字一句を忠実に声にする』というスタイルをとりやめにしました。
喜怒哀楽の『笑い声』や『泣き声』をいわばラジオドラマの中で用いられる効果音の一つの如くに積極的に取り込んで全体を構成して朗読してみました。効果音を「より効果的に生かす」にはなるべくぎりぎりのところまで挿入を我慢し絞り込んで極少の添加を心掛けてみました。

読み終えた達成感は勿論有りますが、今回の朗読会でゴールインしたというよりもむしろここからスタートしたような気分です。例えば、マラソンランナーが大会に出場してレースを完走したとして、次の大会、其のまた次の大会にチャレンジする心持ちにどこか似ています。『土神と狐』という作品はまさにそのような作品です。今後何年間かかけてさらに深く仕上げていきたいと思っています。
とことんのところで自分自身を信じることのできないキャラとして狐も、土神もこの物語に登場してきます。その二人の個性がややこしく絡み合ってその挙句に狐は土神に殺される。もしくは土神がきつねを殺してしまう。
土神は衝動的にきつねを殺してしまうのだが、殺してしまったその直後、土神はきつねの大ウソを知り、大ウソに振り回されていた自分自身を悟り、大ウソをつかずにはいられなかったきつねの悲しみを感じとった。泣かずにはいられない土神が居る。慟哭する土神の「泣き声」と「泣く」という根源的な行動の深淵に踏み込めるようになるまでにはまだまだ私の稽古は足りません。
仕事がら保育で3歳児が『ダダコネの大泣き』をする場面とたびたび向かい合います。
賢治さんの『土神ときつね』という作品の朗読に取り組んでいて気づかされたことといえば、私は「ダダコネの大泣き」にどこまで本気で向かい合ってきたか、どこまで本気で向かい合おうとしてきたのかと猛省しています。土神の泣きに肉迫できる契機をこんなにもっていながら今一つ共感の内側に踏み込めない現段階の私です。

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