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2016年03月19日15:40

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独立不羈の男・河合栄治郎(34)その生涯編・出会った100人超の学者たち

 下記は、2016.3.19 付の産経新聞【湯浅博 全体主義と闘った思想家】です。

                         記

 英国自由主義への確信

 英国バーミンガム郊外のウッドブルック・セツルメントに滞在していた河合栄治郎は、学者たちに会うためにめまぐるしく動いていた。英国滞在中に彼が会った学者たちは、おおむね100人を超える。

 英国でもロシア革命直後は共産主義を理想化して、これを支持する人々も少なくなかった。しかし、労働党が大正9(1920)年、ソ連に派遣した調査団のバートランド・ラッセルが報告書『ボルシェヴィズムの実践と理論』で実情を伝えると、党は共産主義に反対する姿勢を明らかにしていた。

 栄治郎はスコットランド旅行を経てロンドンに戻ると、ロンドン大学にH・ラスキ教授を訪ねた。ラスキといえば、30歳そこそこで花形教授になった気鋭の学者である。彼は「国家の判断が至高であるとする主張は正当なものとはいえない」とヘーゲルの主権的国家論を批判し、国家も教会、学校と同様に社会団体の一つであるとする「多元的国家論」を提唱していた。

 栄治郎はこのほかE・バーカー、L・ホブハウス、G・D・H・コールらに接した。栄治郎にとってラスキは、くみしやすそうではあるが、人物が無愛想で不快な印象を抱いた(「日記I」『全集第二十二巻』)。ホブハウス教授には1923年3月に、やはりロンドン大学で会っている。栄治郎は訪問するにあたって、わざわざタキシードに着替えて敬意を表した。

 多元的国家論の洗礼

 ホブハウスは研究室内にある籐(とう)の安楽椅子に座って、大きなパイプで煙をくゆらせていた。いかにも英国の碩学(せきがく)らしい雰囲気を漂わせている。栄治郎は丁重に挨拶すると、自らの研究歴を披瀝した。これまでアダム・スミスからロック、カント、ヘーゲル、グリーンに至る読書遍歴を伝えると、彼は「正しい方法だ」と口を開いた。

 栄治郎が英独思想家の書物をほぼ渉猟していることを知ると、ホブハウスは「君は何でも知ってるね」と感心し、ようやく心を開いた。1時間半ほどして退出する頃になると、コートを肩にかけてくれた。初めは取っ付きにくかった教授も、途中からは愉快な交流になった。栄治郎は「本当に嬉しい。収穫の多かった日でもあった」と、喜びを日記に記した(同『全集第二十二巻』)。

 ホブハウスは自由放任の自由主義に代わり、国家の干渉によるニューリベラリズムを説いた。だが、栄治郎が彼を評価したのは、福祉政策などで国家の地位が増大する中で、英国の自由主義の伝統を再強調したことであった。

 ホブハウスは主著の『自由主義』で、機械的社会主義と官僚的社会主義との違いを批判的に述べた。前者の「機械的」とは、マルクス主義にみられる階級闘争史観であり、後者の「官僚的」は、S・ウェッブが主宰したフェビアン協会の緩やかな集団のことを指した。そのうえで、ホブハウス自身は、自由主義的社会進歩の理論を掲げたのである(清滝仁志「教養と社会改革」『駒澤大学法学部研究紀要』第六十八号)。

 栄治郎は夏を迎え、英国社会主義の牙城を自負するフェビアン協会の夏季学校に参加した。この協会は、ウェッブ夫妻やB・ショーらが指導する団体で、政治システムの民主化、漸進的な社会主義化を目指した。

 ウッドブルックで善意の人々を見てきた栄治郎には、フェビアン協会に集まる人々が何となく粗野で「人のために尽くす奉仕の念に欠けてゐるやう」な態度が気に入らなかった(「在欧通信」『全集第十七巻』)。

 ウェッブその人も「哲学の研究は無用なり」と語っており、人柄はともかく、栄治郎はどこか物足りなさを感じた。ただ、ウェッブと会話をしているうちに、社会哲学の第1段階としてマルクス主義を批判的に学ばなければならないと思う。

 ちょうど、河合門下の山際正道(後の日銀総裁)から届いた手紙で、東京帝大で招請した外国人講師の「レーデラー氏等がマルクスを切に研究している」と言及があったことに、刺激を受けていたのかもしれない(「日記I」『全集第二十二巻』)。

 関東大震災へのお悔やみ

 栄治郎はフェビアンで4週間を過ごし、南部プリマスで開催された労働組合総会を傍聴した。彼はその労働組合総会2日目に、日本の関東大震災に対する緊急動議が出されたことに驚かされた。日本時間の大正12(1923)年9月1日、大災害が発生した。栄治郎は4日の日記に、大震災のことを次のように記していた。

 「8時半に起きて急いで新聞を買って日本の地震の事を読んだ。稍(ようやく)細かい消息が分かりかけて来た。大変な惨事であるらしい」(同『全集第二十二巻』)

 プリマスの総会は、かつての同盟国である日本国民に同情を寄せ、ことにダメージの大きい人々のためにお悔やみを表明した。彼らは見舞いの電報を日本に送り、3分間の黙祷(もくとう)をささげてくれた。

 「満場一斉に起立して、黙祷をした時には、列席したる自分は、衷心其(そ)の同情に感謝したのであった」(同『全集第二十二巻』)

 栄治郎ははるかな極東の国に心を配る英国人がいることに感謝した。だが、この時の栄治郎には、日本の思想界で大転換が起きていることを知るよしもなかった。関東大震災を契機に革命思想、マルクス主義が開花していたのである。

 この時の栄治郎は、ロンドンとケンブリッジの間にあるホッデスドンで独立労働党の夏季学校に参加していた。フェビアン協会は英国労働党の「頭」であり、独立労働党は「心」であるといわれていた。その独立労働党について栄治郎は、フェビアン協会に比べて全体が統一され、「新たな戦士の集団」と好印象をもった(「在欧通信」『全集第十七巻』)。

 英国労働党は社会運動を別々に進めていた独立労働党、社会民主同盟、フェビアン協会が糾合して労働委員会をつくり、マルクス主義路線の社会民主同盟が抜け、1906年に労働党と改称したことに始まる。=敬称略(特別記者 湯浅博)

                         ◇

 ■独立不羈(どくりつふき) 束縛や制約を受けずに自分の意思に従って自由に行動する。「羈」は馬のたづなの意味。

 http://www.sankei.com/premium/news/160319/prm1603190001-n1.html
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