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2016年03月14日19:43

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GOLF 2016/03/12

スイングは二通りしかないわけじゃない。

意識して打とうとすれば、意識が足かせとなって自然さが損なわれる。しかし、無意識で打てば、大切なポイントを忘れて不合理に陥る。

そのどちらかで極めるしかないかと思っていたが、そうではない。練習場と違って、斜度も地面の硬さも異なるコースでは、様々な状況が生まれている。そういうものは意識した方がよいのだろう。

スイングが悪いときに、どう取り戻すかというのは、実はやってはいけないことであって、練習不足を本番で嘆くことに意味はない。意味がないというより、さらに最悪であろう。それはふたつの意味でそうなのである。

練習通りには行かないことを受け入れらない精神的脆弱さ。それをその場で訂正できると考えている知性のなさ。精神も頭脳も弱いと来た日に、肉体だって強いわけがない。

健全な精神は健全な肉体に宿ると言うが、こんなものは嘘っぱちであることは自明である。そもそも論で言えば、健全の定義から始めなければならない。つまり、精神の健全さと肉体の健全さは同一であるかという問いである。

車で言えば、ドライバーの能力は車のポテンシャルに依存するということであろうか。そうではあるまい。強いAI囲碁は強力なコンピュータを必要とするが、強力なコンピュータがあれば、強いAI囲碁になるとは限らない。同様に健全でない肉体にも健全な精神はありえるだろうし(健全な精神の定義によるが)、健全な肉体に劣悪な精神もありうるだろう。それは組み合わせの問題だからである。

そもそもこれは、ユウェナリスの言葉とされているもので、宿ると言ったのではないらしい。

実際は、次のように言った。

It is to be prayed that the mind be sound in a sound body

それをラテン語で。方言までは知らない。

思惑はいろいろあるらしいし、歴史の中で上手に使われてきた。それの意味することは、人間は精神と肉体の二元論が分かりやすいという所だろう。ふたつを分けて考える。

すると、ではそれを考えている脳は、肉体なのか精神なのかという問いに行き着く。当然ながら脳の機能に精神があるのは確からしい。それは、脳自身が自分をどう見るかといえば、精神としてだからである。一方で他人を見やれば、脳とは純粋な肉体の一部である。

ここに心と魂と精神の3つの立場が出現するのであるが、どちらにしても、ユウェナリスは「宿る」と断言したのではない。訳すなら、健康で健やかに過ごせたら、それで十分じゃないか、くらいではないか。

この言葉の反対にあるものが熱狂であるらしい。それを戒めるための言葉だと、wikipedia にもそう書いてある。

いずれにしろ、ゴルフのスイングは全てが意識的でもならないし、すべてが無心であっても違うと思われる。ふたつはどちらもバランスよく、両立しなければならないようだ。

もし、意識だけなら、無心が足りない。無心だけなら、意識が不足している。意識の部分は意識に、無心の部分は無心に任せる、という状態に持ってゆくのがよいようだ。

スイングは、その両方(他にもあるかも知れない)でできている。

とにかく、いま気を付けていることは、スイングとは、前傾姿勢を保つべきであって、ボールを打ち終わっても前傾姿勢を崩してはならないということだ。これが一番の肝要だろうと思っている。

だが、それが数多くのトップを生む結果となった。僕はこれをよい兆しではないかと密かに思っている。明らかに何かが変わったからである。それ以外の根拠はない。


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