■川内原発周辺の線量計、半数が性能不足 避難判断の目安
(朝日新聞デジタル - 03月14日 05:14)
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運転中の九州電力川内原発(鹿児島県)周辺に設置されたモニタリングポストのうち、ほぼ半数が事故時の住民避難の判断に必要な放射線量を測れないことがわかった。9日の大津地裁の仮処分決定で運転が止まった関西電力高浜原発(福井県)の周辺でも、計画する数が設置できていなかった。事故時の住民避難の態勢が十分に整わないまま、原発が再稼働した。
東京電力福島第一原発事故後、国は原子力災害対策指針を改定。原発から5キロ圏は大事故が起きたら即時に避難し、5〜30キロ圏はまず屋内退避したうえで、ポストで測った放射線量の値をみて避難させるかを国が判断することにした。毎時20マイクロシーベルトが1日続いたら1週間以内に、毎時500マイクロに達したらすぐに避難する。
指針などでは、原発から30キロ圏の市町村に避難計画の策定を、道府県にはポスト設置と、地区ごとに避難の判断基準とするポストを定めることを求めた。
鹿児島県は昨年8月の川内原発1号機の再稼働までに、5〜30キロ圏に判断の基準となる48台のポストを設置。うち22台は毎時80マイクロまでしか測れず、すぐに避難する判断には使えない。
県原子力安全対策課は「緊急時には近い別のポストで測ったり、(持ち運んで据え付ける)可搬型ポストを配備したりするので問題ない」と説明。だが、県が配備した可搬型ポスト44台のうち30台は毎時100マイクロまでしか測れない。
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よく知らないけれど、数マイクロから、毎時500ミリまでを一台で測りきれるような装置があるのだろうか?一般的には、繊細さと、大雑把さは同居しない。きめ細かく測定したければ、敏感なセンサーを付けるし、高い値を測るなら、小さな桁は誤差にして丸めてしまう。
しかもモニタリングポストというのは、毎日測定することが重要であって、個々の機体差があっても、それは、同じ機械で同じ場所を測ったことで得られるグラフによって、継続性のあるデータとして信頼できるわけである。
さて、一般的なバックグランドは、年1〜3mSvである。毎時にすると、およそ、0.2μSv から0.6μSvとなる。通常は、この値を測定するのがモニタリングポストの主な役割であって、これから大きく異なる値が出現したら原子力発電所でアクシデントが起きたと考えられる。
一方で避難に使用する値は、毎時20μSv,500μSv。これを年間に直せば、175mSv,4.3Svとなる。
これらの策定基準はおそらく妥当だろうと思われる。科学的な根拠というよりは、経験から導かれたものだろうが。
問題はそういう所にはない。その値が上下動したところで、体制に影響はない。問題は、それをどう運用に落とし込むかという話である。モニタリングポストは日常を監視するためのものであって、基本的には、日々これ安寧、そろそろ撤去しても問題ないんじゃない、という日常にあるのがふさわしい。
それとシビアアクシデント下で使用するものが果たして同時に運用できるかという話である。救急車を装甲で囲えば、戦場でも使える動く病院になるんじゃない、という発想は、確かに一理あるが、多くは絵に描いた餅、というか、子供の落書きの域を出ない。もちろん、子供の発想が大発明に結び付く例もあるから、難しいのである。
いずれにしろ、これだけの事故を起こした後に、再稼働において、これほど、運用能力を欠如しているとは思わなかった。計画したやつもやつなら、査閲したやつも奴であろう、と思われる。
一体、どこでこういう問題が看過されるようになったのか。運用を考えれば、やはり、このような高線量を測定する機能をモニタリングポストに持たせるのは、誤っているように思われる。
高線量を測定しなければならない状況ならば、おそらくパニックが起きている。モニタリングがどうのこうのと次も冷静に対処できるとは限らない。
だからといって自分たちが決めた取り組みを最初からおなざりにして、果たして、これで運用が進められるのだろうかという気もする。
そもそも論で言えば、運用にどう落とし込むかは、現場に任せた方がいい場合もあるし、最初から考えておかなければならない場合もある。その使い分けが難しいのであるが、少なくとも、原子力の再開はきちっとしたうえでやろう、と話し合って決めたはずである。
それがこうである。おそらく予算もないのだろう。500mSvを測る機械がどこに売っているのか、幾らすると思っているのか、という話もあるかもしれない。
そうであれば、運用は自衛隊などが測定用装備を運用する方がいいような気がする。なぜモニタリングポストでそれができると思ったのか。それがベストな解であったか。
僕はもちろん知らない。粛々と上から現場まで全員が自分たちの役割を果たそうとした。それがこの結果だとして、予算がなかったのか、そんな装置ありゃしませんだったのか。だが、この体たらく、果たしてこの先は大丈夫かいな、という疑問を持たれるのは当然である。また、そういう視点で監視すべき人々が存在しなければならない。
意味のないことをしているとか、していないという話ではない。自分たちが決めた手順を最初から守れなかったのならば、そのような運用者を、将来にわたって、どう信用しえるのか。何をもって信頼の証明とするのか。
これは査閲者、出てこい、という話である。
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