既に故人になられた遠藤周作さんは「生き上手 死に上手」(文春文庫)で次のように書いてあります。遠藤さんもシンクロニシティが多かったようです。以下、転載します。
老いにも利点がある
・・・・略・・・・
今、私はある小説を準備している。
ところが昨年の師走、たまたま宗教学者エリアーデの『日記』を読んで私の考えている小説の主題とそっくりのテーマで彼が作品を書こうと試みていることを知った。
「あらゆる出来事は二義性がある。外見は平凡な出来事にもそれを超えた意味をもつ宇宙が啓示されているのだ。現在、書きつつある中篇小説で、私はその密かな意味を伝えたいと思う」
小説の意図を彼はそのように日記に書いているが、この意図は実は私が次の小説として考えているものと符合していた。しかも彼がこの日記を書いたのは1963年の12月28日なのだが、私がこの部分を読んだのはまさに昨年の12月28日だったのだ。
私は宗教学者としてのエリアーデは承知していたが、小説まで書いているとは知らなかった。早速本屋に問い合わせると、ないという。仏語訳で読もうと思ったが、年末のあわただしさで注文ができなかった。
もう一つの世界が囁くもの
ところが年があけて梅原猛氏の『日本冒険』の第三巻をゲラで読む機会をえた。驚いたことには梅原氏は私が読みたかったエリアーデの小説「ホーニヒベルガ博士の秘密」に一章までさいているのである。
更にその数日後、たまたま立ち寄った古本屋でコートの端がうずたかく積まれた本の一冊を落とした。拾いあげてみると、それがなんと、エリアーデの「ムントゥリャサ通りで」(筑摩書房)という邦訳だったのである。
昔の私だったらこの三つの出来事をよく出来た偶然の一致と思っただけだろう。おそらくこの随筆を読んでくださった読者もそう考えられるにちがいない。
しかし今の私の「老い」がこの一致のなかに偶然以上のものを感じてしまうのだ。いわゆる客観的な因果律をこえた別の眼にみえぬ働きがこの三つをつなげているような気がしてならぬのである。
ユング学者ならばこの一致を「同時性」とか「共時性」と呼ぶだろう。ユング学者によると我々の生きる顕在系の世界(我々の事実の世界)を包む暗在系の世界(眼に見えぬ世界)があって、その世界が我々の世界に現われる時、このような偶然の一致が存在するのだ。年をとるにつれ私もこうした考えに共感をおぼえるようになった。
ついこの間、かねがね敬愛するユング学者の河合隼雄氏と対談する機会があった。この時も私たちの話はこの共時性(シンクロニシティ)や偶然の一致にふれ、それが単なる偶然ではなく、我々の世界を包むもう一つの世界がチラと我々の世界に姿をみせていることなのだと語りあった。
「老いは」この「もうひとつの世界」に対し青年時代や壮年時代にはもてなかった敏感さを私に与えている。それをおそらく老いの迷いと嗤(わら)う人も多いだろうが、私としてはどうしても追いつづけていきたいテーマなのである。
私たち人間を包んでいる大きなもの、大きな世界、その大きな世界が我々の日常に囁きかけているかすかな声。それに耳傾けるのが老年だと思うようになっている。
小林正観「心を軽くする言葉」の中で、次のように言っています。
偶然は宇宙の意志。
偶然が二つ重なったら、
そこには何か宇宙の意志がある。
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