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2016年02月27日15:53

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樫本大進&コンスタンチン・リフシッツ

 【プログラム】
1 ベートーヴェン: ヴァイオリンとピアノのためのソナタ 第7番 ハ短調 Op.30−2
2 ブラームス: ヴァイオリンとピアノのためのソナタ 第2番 イ長調 Op.100
          〜〜〜休 憩〜〜〜
3 プロコフィエフ: ヴァイオリンとピアノのためのソナタ 第1番 ニ長調 Op.94bis

 (アンコール)
J.S.バッハ: ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタBWV1019異稿より
                                  「カンタービレ,マ・ウン・ポコ・アダージョ」

樫本 大進(Vn)
コンスタンチン・リフシッツ(Pf)

2016年2月16日(火),19:00〜,札幌コンサートホール


実を言うと,樫本大進くんが天才ヴァイオリニストであることに疑いの念を持っている。彼の演奏を聴いていても,あまり面白くない。ささくれ立ったような汚れた音が苦手だ。そして,濃い霧が立ち込める光景を望遠鏡の反対側から,つまり接眼レンズではなく対物レンズの側から覗いているような錯覚にとらわれる。遥か遠くで鳴り響く,つかみどころのない音楽を聴いているようで苛立ちを覚える。

だが,これは耳の悪い素人の哀しさなのだろう。玄人筋にはすこぶる評判が良いらしい。世界有数の指導者からヴァイオリンを習い,これまた世界一とされるオーケストラのコンサート・マスターのポストを射止めた。天才ヴァイオリニストにふさわしいキャリアを積んでいることはだれの目にも明らかだ。

これまた,自信のない素人の哀しさであるが,ヴァイオリンの世界で高く評価される大進くんの秘密が知りたくて,彼の演奏会には何度も足を運んでいる。そしてついに今回彼のリサイタルを聴いて,彼が天才たる所以がおぼろげながら見えてきたような気がした。もし,この直観が当たっているとすれば,樫本大進氏は興味深い演奏家といえよう。

音楽に限らず,著作にも古典といわれる作品は多い。だが,古典的な著作は,凡人が読んでもちんぷんかんぷん全く歯がたたないのが普通だ。例えば,ジェイムズ・ジョイスの「ユリシーズ」も,最後まで読み通したとしても,浅学菲才の身には読み終えたという達成感はあっても,頭の中で言葉の数々が踊っているだけでさっぱり要領を得ない。凡庸な人間にとって,古典とは理解困難な書物である。見栄っ張りな凡人は,入門書や解説書の力を借りて,分かったような気になり,あまつさえ借り物の解釈を吹聴して歩く愚を犯す。

しかし,樫本大進は「ユリシーズ」を楽に読みこなし,著者の意図するところを彼なりに理解しうる能力に恵まれた人物らしい。もちろん,作品を解釈する力だけでなく,それをヴァイオリンで表現する能力でも抜きん出ている音楽家らしいという発見があった。単純化すると,おそらく彼は楽譜を読んだり弾いたりしただけで,その作品のイメージが浮かび上がってくるのだろう。作品を理解するうえで,録音や公演で他人の演奏を聴いて,それを手掛かりにする必要など彼にはないのだろう。

ただ,彼の解釈や表現にはユニークなところがある。そこが素人と玄人とで評価が分かれる分岐点になっているのではないだろうか。やや強引な一般化を許してもらうと,玄人は彼の独自性や個性を大いに評価する。別のいい方をすると,ある作品を他人の力を借りずに深いレベルでとらえ得る能力をプロは高く評価するのだろう。その把握には彼の個性が刻印されるのは当然である。一方,素人はCDやコンサートを聴いて作り上げた作品のイメージと違うので戸惑う。こうした違いがあるのではないか。

今回,こうした点に気付いたのは,ベートーヴェンのソナタ第7番ではささくれ立って汚れたような音が耳についたものの,ブラームスやプロコフィエフではそのようなノイズが激減したことが一因といっていいだろう。ブラームスのソナタ第2番では,柔らかく艶やかな音色が,この作品を表現する邪魔になることはない。かえってブラームスのロマンチシズムと樫本大進の強靭さとが調和していた。プロコフィエフのソナタ第1番では,透明感と鋼のような強靭さをあわせ持つ樫本大進の持ち味であるサウンドが十二分に発揮される。リサイタルの1曲目では往々にしてあることだが,まだエンジンがスムーズに回転しておらず,馬力で押切ろうとしたため粗くなったのだろう。

もうひとつ,彼の天才に気付いた要因は選曲にあるように思う。今回のプログラムは3曲とも,3人の作曲家が書いたヴァイオリン・ソナタの代表作というより,名作の陰に隠れたというと言い過ぎになるが,どちらかというと地味な作品ばかりだ。いずれも地味な存在の作品である分,素人の思い入れや既成のイメージが希薄だったことが幸いだったような気がする。思い込みが少ないため,新鮮な気持ちでより素直に演奏と向き合えたのが好ましい方向に作用したためではないだろうか。ベートーヴェンは汚い音色に邪魔されて演奏に集中できなかったが,そのような攪乱要因が薄らいだブラームスやプロコフィエフでは,濃い霧も少しは晴れて,相変わらず遠くで鳴り響いているような感じは拭い去れないものの,望遠鏡を反対から覗き込むような違和感はなく,肉眼で見ている確かな手応えのようなものはあった。

とにかく,樫本大進がやや個性的ではあるが楽譜から他人の力を借りずにつかみ取ってきた音楽を自分の流儀で造形するさまを目の当たりにしたのは間違いない。ステージの上では,なにか熱を帯びた音楽がある種の生々しさを伴って再現されていた。それはユニークである分,より強力に訴えかける力を持っていたようでもある。ただし,彼の演奏はシャイで,大袈裟な身振りで聴衆にアピールすることを憚ってでもいるような印象を与える。それを乗り越えんとして,力が入り過ぎるためなおさら聴衆に伝わりにくくなる。また,音が汚れる欠点の原因もこうした点にあるのではないか。

伴奏をつとめるリフシッツは,以前にも増してヴァイオリンとのバランスが絶妙だ。このコンビが行った過去のリサイタルでは,ヴァイオリン伴奏つきのピアノ・リサイタルかと思わせるものもなくはなかったが,今回は伴奏に徹してヴァイオリン独奏の邪魔をするようなことはいっさいなかった。それどころか,ヴァイオリニストが脚光を浴びるために,どのようにピアノを弾くべきなのかということのお手本になる伴奏といっていいだろう。リフシッツと樫本大進の持ち味には互いに似かよったところがあり,その相乗効果も垣間見られたように思う。

実はこのリサイタルが開かれることを知った時,一瞬躊躇したものの出かけることにしたのはプログラムのせいだ。とりわけプロコフィエフのヴァイオリン・ソナタに興味を持った。そして,樫本大進の新しい面を発見できるような予感がした。今回はこの直観が当たったわけだが,もちろんまぐれであることは多言を要しない。

それから,アンコールで取り上げられたのは,モダン楽器のヴァイオリン・リサイタルで演奏される機会が稀なバッハのヴァイオリン・ソナタBWV1019の第4楽章,それも異稿という凝りよう。なにか心境の変化でもあったのだろうか。
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