下記は、2016.2.18 付の産経新聞の【正論】です。
記
原油の国際価格が1バレル30ドル前後に下落した。モスクワでは、次のような小話すら囁(ささや)かれている。「人間の体温は本来36度程度。石油の値段も36ドルが正常」。原油安はルーブル安を生み、主要7カ国(G7)が科している制裁と相まってロシア経済に「三重苦」をもたらしている。この「三重苦」は、プーチン政権の内外政策に一体どのような影響を及ぼすのか。
国民が冒された「オランダ病」
ロシアは、エネルギー資源大国。天然資源が輸出に占める割合は約6割、ロシア政府が資源の採掘税と輸出関税から得る収入は全歳入の約5割にも達する。石油の価格−ガスの値段も連動−が、1バレル当たり1ドル下落するごとに、政府歳入は約20億ドルも減少する。
ロシアの国民総生産(GDP)の伸び率は、2015年に前年比でマイナス3・7%となり、国家予算は今後10%のカットを余儀なくされる。プーチン政権は軍事費の削減を最小限にとどめる一方、教育、医療、社会福祉の予算を大幅に削減することにした。
このような事態に直面しても、国民は政権に抗議することなく生活費を切り詰め、ひたすら耐え忍んでいる。不思議である。多くの理由が挙げられるだろうが、ここでは「納税者民主主義」がロシアで未確立との事情を指摘しよう。
「社会主義」時代、ソビエト政府は必要な予算を前もって天引きし、残りの金額を国民に分け与える方式を採用した。国民からすれば、給料は少額だったものの、教育、医療、光熱、交通費は殆んどタダ同然だった。プーチン期になると空前の石油ブームに恵まれ、資源関連の税収が国庫収入の5割を占めたので、国民側の税負担は残りの5割で済むことになった。
以上のような歴史や僥倖の結果として、ロシアでは〈税金を納める者が当然、政治に関する発言権を持つ〉という、欧米流の納税者民主主義が発展しなかった。
プーチン氏側近ほど顕著ではないまでも、ロシア国民もまた一種の「資源の呪い」にかかっている。資源大国なのだから、汗水たらして働く必要なし−彼らの多くは、こう考える「オランダ病」に冒されている。加えて、彼らは今日の食事を少々犠牲にしても、ロシアが大国としての栄光を復活させることを願っているのだ。
「手品」はいつまで有効か
ロシア国民間に存在しているこのような願望を敏感に察知し、それを実現して、人気を博そうとする−。プーチン氏こそ、まさにそのような指導者と見なして差し支えなかろう。『人はパンのみにて生きるにあらず』(ソビエト期の作家ドゥジンツェフの小説名)。この言葉の真なることを熟知しているプーチン氏は、12年にクレムリンに復帰するや否や、己の政権の正当化事由を転換した。物質的水準の向上から、ロシア土着の伝統や文化の独自性の尊重への転換である。米欧型発展モデルへの追随を排し、外部諸国のロシアへの干渉を拒否し、愛国心を高揚させることが、その狙いである。
プーチン氏のもくろみ通り、一時下降気味だった支持率も急上昇を遂げた。ソチ五輪の主催やクリミアの併合によって弾みのついた支持率は、シリア空爆開始によって89・9%に達した。
華々しい花火を対外的に打ち上げることによって、国内の失政、なかんずく経済的困難から国民の目をそらす−。プーチン流の「手品」は一体、いつまで有効なのか。今後の見どころだろう。
プーチン氏は、昨年12月「経済危機のピークは過ぎた」との認識を示したが、その直後に原油価格は急下降し、自らの発言が客観的根拠を欠く無責任なものだったことを暴露した。国民の一部は、次第に同氏のトリックに気づきはじめている。
戦術家だが戦略家にあらず
長距離トラック運転手のストライキは、このような不満表明の好例だろう。この種のストライキが拡大し、ひょっとして11年末発生した反政府運動に似た規模へと発展する−。このような危険を恐れるプーチン政権側は、例えば今年12月に実施すべき下院選挙を、夏休み休暇気分が残る9月へと前倒し実施することに決定した。
あえて現時点で大胆に予想するならば、プーチン氏は、18年の大統領選挙では当選を果たすかもしれない。とはいえ、同政権の前途はますます厳しいものになろう。というのも、氏は戦術家としては優れていても、戦略家としてはそうとは評しがたいからである。
確かに、国民の目を一時的にそらすための小細工や弥縫策にはたけている。だが、G7から資本、先進技術、イノベーションを大胆に導入することによって、ロシア経済をその宿痾(しゅくあ)である資源依存癖から脱却させる。残念ながら、この種の大胆な改革を断行する構想や戦略を持ち合わせていない。
もしそうだとすれば、後世のクレムリン・ウオッチャーたちは、説くかもしれない。14年7月以後ロシアを襲った原油価格の大暴落は、プーチン王朝没落の始まりを告げる不吉な前兆だったのかもしれない、と。(きむら ひろし)
http://www.sankei.com/column/news/160218/clm1602180005-n1.html
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