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2016年01月23日10:50

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ナチスと知識人(C・シュミット、ユンガー)について

 カール・シュミットの例外状態における決定としての政治は、ハンス・ケルゼンの規範的政治に対する批判でもあるが、なぜ規範ではなく決定なのかというと、当時のドイツには生活が困難を極めていたからだろう。だから規範どころではなかったわけだ。
 そのカール・シュミットだが、日本では、ユンガーよりもシュミットの紹介の方が格段に進んでおり、シュミットの翻訳やその研究にはそれなりの蓄積があり、まだまだ不十分な紹介で、半ば伝説の中に置かれているユンガーと比べると、シュミットの方が比較にならないほどよく知られている。しかし、ドイツでは、ユンガーの盛名に対してシュミットの戦後は、日本とは逆の状態だった。シュミットは、戦後、エルンスト・ユンガーに比べて自分が不遇たったことの愚痴を、その『グロッサリウム』でも書いているが、簡単にいえば、ナチスに入党したシュミット自身と、ナチスに入党せず、公的にも協力を拒否したユンガーとの違いに、少し鈍感だったように思われる。シュミットは政治的感覚に優れていたと思うのだが、このあたりのことを考えると、そうでもないか、あるいは自分に関しては盲目なところがあったのかもしれない。
 ユンガーは、ナチス時代のドイツ詩人協会などの文学機構の幹部どころか、そこに所属することも拒み、ナチスの機関誌に自身の著作を引用されることを拒んでいる。それのみならずナチスに逮捕されたアナキストのエーリヒ・ミューザムや国民ボルシェヴィストのエルンスト・ニーキッシュの家族を保護したりもした。この露骨な非協力ぶりにゲシュタポ長官ヒムラーは、ユンガー逮捕を決定し、ユンガー宅の家宅捜査が何度か行われる。ただ現場担当のゲシュタポは相手が、第一次世界大戦の特攻隊長であり、プール・レ・メリット勲章を持つドイツの英雄だったユンガーなので少し腰が引けていたところもあったようだ。
 ヒムラーのユンガー逮捕の強い意志にも関わらずユンガーが逮捕されなかったのは、ヒトラーがユンガーの第一次大戦期の軍功を高く評価し、ユンガー逮捕を禁止したというヒトラーの気分という僥倖の結果だった。友人たちはユンガーに亡命を勧めたが、ユンガーは逮捕、強制収容所送りの危険も顧みず(事実、ユンガーと交流があったニーキッシュは強制収容所に入れられていた)、ドイツと共にあることを選ぶ。そこでユンガーの友人である陸軍の幹部は、当時はまだナチスに対し相対的な独立性を有していたドイツ陸軍の力でユンガーをナチスから守ろうとして、ユンガーの部隊を、国防軍最高司令部のヨードル将軍の反対を押し切ってパリ任務に就かせることにする。その結果が『パリ日記』として結実する。
 パリ駐屯のドイツ軍司令官のフォン・シュテュルプナーゲル将軍は、ワイマール初期の、まだ軍に在籍していた頃のユンガー少尉の上官(当時は大尉)であり、ユンガーをパリに呼んだハンス・シュパイデル大佐(後に中将となり、連合軍のノルマンディー上陸の頃のロンメル元帥の参謀長になる)は、ユンガーの友人。ユンガーはワイマール初期に少尉で軍を退いているため、第二次大戦期は大尉で中隊長クラスだったが、そのまま軍に在籍していたなら陸軍少将か中将クラスだったといわれ、また、ロンメル元帥と共にプール・レ・メリット勲章の受勲者という英雄的軍人という過去から、私的な空間では、将軍その他の上官とは、相手もそれを求め、階級は関係なく対等に話すこともあったらしい。
 初期ユンガーの戦争肯定や過激なナショナリズムは、「ナチスの先駆」として戦後も批判され続けたが、ユンガーとナチスの違いの1つとして、ユンガーには第一次大戦の敗戦に対するナチスのような報復思想がなかった。報復ではなく敗戦の突破をユンガーは志向した。第二次大戦のドイツ最盛期に書かれた『平和』が、戦争後半期にシュテュルプナーゲルやロンメルをはじめ反ナチ派のドイツ陸軍士官に広範な影響を持つが、ユンガーの平和論は第一次大戦の敗戦突破の思想の帰結だといえる。つまり戦争肯定は現象学であり論理学が平和になる。例えば、ユンガーの著作の文献学的研究をしたウルリヒ・ベーメによれば、ユンガーの『平和』は、ワイマール初期の戦争肯定の『内的体験としての戦闘』と同じ論理に拠るものであるらしい。つまり、ユンガーの平和論の論理は、反戦思想に拠るのではなく、好戦思想を敗戦の完遂として徹底化し、戦争肯定を超脱したものといえるだろう。それは、戦後のユンガーの「森を行く」という無政府人(アナルク)の境地にも通底しよう。ユンガーの平和論は、戦争の禁欲(反戦)ではなく、戦争の解脱とでもいえようか。解脱するには、禁欲ではなく、深く浸る必要があるからだ。ロジェ・カイヨワがいう、ユンガーが、現代における最も強固で過激な戦争肯定派であったがゆえの解脱といえようか。
 ユンガーの思想の魅力は、その官能性にある。ホーフマンスタールと並ぶスタイリスト(文体家)とされる彼の文章は端正で気品があるが、内容は官能的だ。特にワイマール時代に書いた多くのナショナリズム革命についての文がそうであり、魔術的な喚起性に富んだ文章が充満している。ユンガーといえば、20世紀という、厳密にいえば、少し昔の、問題性の多い文豪という見方が一般的だが、しかし、例えば、イランあたりに行くと、彼はまさに現代の作家として読まれ、特に『鋼鉄の嵐の中で』などは、今、読まれる作品として高い人気を持っているとのことだ。そのユンガーの初期の戦争作品には、『鋼鉄の嵐の中で』『火と血──大会戦の断片』『125号の森──1918年塹壕戦』という体験記、『内的体験としての戦闘』というエッセイ、そして『シュトルム』という小説がある。
 ユンガーが名実ともに作家となるのは、ワイマール時代のナショナリスト活動の後であり、1930年以降になるが、その先触れとして『Das abenteuerliche Herz(冒険心)』という作品がある。これには、ユンガーのナショナリスト的な政治活動期の後半の1929年の版と、その後の1938年の版の2つの著作があり、ユンガーの政治と文学の接点と共に、ユンガー文学のエッセンスを示しているといえる。
 ユンガーは、ナチスには入党しなかったが、ナチ党員となったハイデガーやカール・シュミットと、しばしば比較されるが、根本的な違いは、ハイデガーやシュミットは、哲学者や政治学者としての地位を確立してからナチスという政治に参加したのに対して、ユンガーは、政治活動の体験の後に作家になったというところにある。
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