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2016年01月19日02:46

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1958日目からの「ハゲ」のつづき

 ハゲのつづき
 ↓↑
 交響詩
 『禿山の一夜』
 (はげやまのいちや
  Night on Bald Mountain)
  ニ短調
 ↓↑
 モデスト
 ムソルグスキー作
 ↓↑
原型は
メグデンの戯曲
『魔女』に構想された
オペラ
『禿山(ハゲやま)』
1860年頃に作曲したピアノ曲
『聖ヨハネ祭前夜の禿山』
「聖ヨハネ祭の前夜に
 不思議な出来事が起こる」
の言い伝えの一種、
「聖ヨハネ祭前夜、
 禿山に
 地霊チェルノボグが現れ
 手下の魔物や幽霊、精霊達と大騒ぎ
 夜明けとともに消え去っていく」
 とのロシアの民話が元
聖ヨハネ祭は
「夏至の夜の祭り」で
シェイクスピアの
『夏の夜の夢』と同様の題材
 ↓↑
『禿山の一夜』は繰り返し改訂・編曲
様々なバージョンが残されている
 ↓↑
『サランボー』(1864年頃)で
初めて『禿山の一夜』のモチーフが登場
独立した曲としては明確に現存せず、
アバドが『サランボー』の一節
「巫女たちの合唱」
として録音している
『禿山の一夜』の原曲は
第3幕第1場の最後あたり・・・
 ↓↑
作曲者による原典版(1867年)
現在の
ムソルグスキーのオリジナル版
ゴーゴリの戯曲
『聖ヨハネ祭の夜の禿山』
に基づいた題名
「魔物たちの集合〜
 〜そのおしゃべりとうわさ話〜
 〜サタンの行列〜
 〜サタンの邪教賛美〜
 〜魔女たちの盛大な夜会」
という
4つの場面が曲想として構成
初演は作曲後100年以上を経た
1968年に行われた
アバドの指揮による
 ↓↑
『ソローチンツィの市』(1880年)
1874年〜1880年にかけて作曲された
ムソルグスキー晩年のオペラ
『ソローチンツィの市』
第3幕第1場の合唱曲
「若者の夢」として、
『禿山の一夜』
が用いられている
ムソルグスキーが
オペラ自体を未完のまま没したため、
ほとんど知られることなく
1913年に初演された
 ↓↑
オペラの一節
テノール・バス

児童合唱により構成
魔物の咆吼の合唱が秀逸
原典版にはなかった
「教会の鐘」
とその後の
「悪魔たちの退散」
はこの版に収められている
原典版にはこのシーンがないため、
リムスキー=コルサコフ
による編曲で追加されたものと思われがちだが、
このシーンは
ムソルグスキーのオリジナル・・・
 ↓↑
リムスキー=コルサコフ
1881年
ムソルグスキー没後、
リムスキー=コルサコフは、
未発表だった
ムソルグスキーの作品
『禿山の一夜』
を採り上げ
「若者の夢」
のための合唱版は、
ムソルグスキーが
ピアノ版に編曲していたが、
リムスキー=コルサコフ

この両者を参考にして
一部補筆し、
オーケストレーションについては
全面的にやりなおして、
1886年
現在
『禿山の一夜』
として知られる楽曲は
この改訂版・・・
 ↓↑
この曲は
ディズニーが
1940年に作った
アニメーション映画
『ファンタジア』
にも取り上げられた
(ストコフスキーの編曲が使用)
 ↓↑
モデスト・ペトロヴィッチ・ムソルグスキー
(Моде́ст Петро́вич Му́соргский
 マデースト・ペトローヴィチ・ムーサルクスキィ
 ラテン文字転写=Modest Petrovich Mussorgsky)
1839年3月21日〜1881年3月28日
ロシアの作曲家
「ロシア五人組」の一人
「五人組」の中では、
そのプロパガンダと民謡の伝統に忠実な姿勢をとり、
ロシアの史実や
現実生活を題材とした
歌劇や
諷刺歌曲を書いた
国民楽派の作曲家に分類され、
歌劇『ボリス・ゴドゥノフ 』
管弦楽曲『禿山の一夜』
ピアノ組曲『展覧会の絵』
などが代表作
 ↓↑
ムソルグスキーは、
バラキレフに師事
ベートーヴェンなどの
ドイツ音楽を学ぶ
バラキレフの監督下に作曲された
『4手のためのピアノ・ソナタ』
は、ムソルグスキー
唯一のソナタ形式を含む作品
未完成のまま放棄した歌劇
『アテネのオイディプス』
ピアノ曲
『古風な間奏曲(Intermezzo in modo classico)』
(1867年に改訂し、管弦楽化)
民族主義的でない
 ↓↑
ムソルグスキー家は
荘園の半分を収奪され、
ムソルグスキー自身は、
多くの時間を
カレヴォに過ごし
一家の零落を救うコトに失敗
 ↓↑
独学
1863年〜1866年
歌劇『サランボー (Salammbô) 』に取り組む
ペテルブルクに戻り、下級官吏として生計
ペテルブルクで、
近代芸術や近代科学について読書し、議論
ムソルグスキーは、
「リアリズム」
という理念を抱くようになり、
社会の低層に関心を寄せた
再現や
シンメトリーのある楽式を拒否し、
「現実生活」の繰り返しのない、
予測のつかない流れに忠実であろうとした・・・
 ↓↑
1865年
母親死没
深刻なアルコール依存症
26歳のムソルグスキーは、
写実的な歌曲の作曲を始め、
1866年に作曲された
歌曲
『ゴパーク(Gopak)』
『愛しいサーヴィシナ(Darling Savishna)』
は1867年に、初めて自力で出版された作品
1867年
『禿山の一夜』の初稿が完成
バラキレフはこれを批判し、
指揮することを拒まれ
存命中には上演されなかった
 ↓↑
文官としての職務は安定せず
1867年
余剰人員と宣告され、
出勤しても無報酬
ムソルグスキーは
ダルゴムイシスキーに接近
1866年よりプーシキンの
原作歌劇
『石の客』
を作曲中であった
ダルゴムイシスキーは、
テクストは
「その内的な真実が
 捻じ曲げられないように、
 あるがままに」
曲付けされるべきであると力説
アリア

レチタティーヴォ
をやめ
デクラマシオン
をよしとした・・・?
 ↓↑
『石の客』に影響されて、
1868年に作曲された、
ゴーゴリ原作の
『結婚』の最初の
11場では、
戯曲の日常的な対話の
抑揚を、旋律線によって
自然に再現することが優先
『結婚』は、
ムソルグスキーの
自然主義的な曲付けにおいて
極端な位置を占めている
作品は第1幕の終結まで作曲されながらも、
管弦楽法を施されぬままに放棄されたが、
その典型的な
ムソルグスキー流
デクラマシオンは、・・・?
その後のあらゆる
声楽曲において
聞き取ることが可能
自然主義的な声楽書法が、
数ある表現原理の中で、
しだいに唯一のものとなった
 ↓↑
『結婚』を放棄した後、
ムソルグスキーは
ボリス・ゴドゥノフの物語で
オペラを作曲するよう励まされ
プーシキン
の戯曲や歴史物語を集め、
オペラ『ボリス・ゴドゥノフ 』
を書き上げ
1871年に提出されるが、
歌劇場から上演拒否
初稿では、
プリマドンナ役
がなかったから・・・
ムソルグスキー
は改訂に取り掛かり、
大掛かりな
第2稿(原典版)を完成させ
1872年(5月)に受理され、
1873年
マリインスキー劇場
抜粋上演
 ↓↑
1874年2月
『ボリス・ゴドゥノフ』の初演まで、
ムソルグスキーは、不運に終わった
「五人組」の合作オペラ
『ムラーダ』にかかわって、
このために
『禿山の一夜』
合唱版を作成し、
歌劇『ホヴァーンシチナ』にも着手
『ボリス・ゴドゥノフ』
は批評家筋の受けが悪く、
上演回数は十回程度でしかなかったが、
聴衆には好評で、
これによって
ムソルグスキー
の活動は頂点をきわめた。
 ↓↑
ムソルグスキーは、
アルコール依存症の狂気・・・
友人
ヴィクトル・ハルトマン(ガルトマン)
の死亡(1873年)
肉親や
ルームメートの
ゴレニシェフ=クトゥーゾフ伯爵
(『陽の光もなく』『死の歌と踊り』の作詞家)
も結婚して去って行った
1874年以降
『陽の光もなく』、
『モスクワ河の夜明け』
(『ホヴァーンシチナ』前奏曲)、
『展覧会の絵』
が作曲
歌劇
『ソロチンスクの定期市』にも着手し、
『禿山の一夜』
の、別の合唱版も作成
 ↓↑
『死の歌と踊り』が作曲
文官としての仕事は、
「病気」や欠席不安定になったが
内務省に転職
1879年
伴奏者として
3ヶ月間に12都市で演奏活動
サンクトペテルブルク
に戻ると
再び以前の荒んだ生活に逆戻り
 ↓↑
1880年
公務員の地位を追われる
ムソルグスキーの窮乏を知って友人たちは、
『ホヴァーンシチナ』
『ソロチンスクの定期市』
を完成できるように寄付を集めようとした
『ホヴァーンシチナ』
のピアノ・スコアは、
2曲を除いて完成したが
完全には至らなかった。
 ↓↑
1881年
初頭に4度の心臓発作
3月28日
42歳で死去
イリヤ・レーピン
によって肖像画が描かれた
 ↓↑
増四度を積み重ねる技法や、
原色的な和声感覚、
作曲素材の大胆な対比などは、
印象主義音楽や
表現主義音楽の前触れ・・・
 ↓↑
20世紀半ばに
ショスタコーヴィチによって、
作曲者の手法にあたうる限り忠実に、
2つの歌劇
『ボリス・ゴドゥノフ』
『ホヴァーンシチナ』
の管弦楽法がやり直されるまで、
永らく見過ごされてきた
『禿山の一夜』は、
ディズニー映画『ファンタジア』に利用
 ↓↑
ピアノのための連作組曲
『展覧会の絵』
作品は友人であった
建築家
ヴィクトル・ガルトマン
の遺功をしのんで作曲
19世紀のうちから
管弦楽への編曲が試みられていたが、
今日の演奏は
ラヴェルの編曲・・・「ラヴェル」です
 ↓↑
ムソルグスキーは歌劇
『ソロチンスクの定期市』を未完成のまま没した
舞曲
『ゴパーク(英語読みでホパック)』
は、単独で演奏され、
ラフマニノフ
のピアノ用への編曲で有名になった
 ↓↑
歌曲
『蚤の歌』・・・「のみ(已・爾・耳・而已・已矣・而已矣
         能見・廼見・能美・納見)」の「ウタ」

ゲーテ
『メフィストフェレス』

アレクサンドル・ストルゴフシチコフが
ロシア語訳した詞に曲をつけた
バス独唱曲。その他の作品では、
3大歌曲集
(『子供部屋』(1872年)、
 『日の光もなく』(1874年)、
 『死の歌と踊り』(1877年))
が有名
ーーーーー
 ↓↑
「イデア」
古代ギリシャ語の
動詞「idein(見る)」に由来
 ↓↑
プラトン哲学
「idea(イデア)」

「eidos(エイドス)」とを対比
「eidos」は「idein」に由来
「idea」や「eidos」
が哲学用語・専門用語として
意味が固定したのは、
弟子の
アリストテレス・・・・・Aristotle・亜立土度徳・亜利斯土的列
            亜利士達
が用いて以降
プラトン自身が専門用語として
用いていたわけではなかった・・・
 ↓↑
プラトンの説の変遷・・・・Plato・布拉多・布拉達
             伯拉多・伯羅多
プラトンの初期
ソクラテスが実践した・・・Socrates・瑣子・瑣克底
             所哥羅垤斯・瑣格刺底
「philosopy(愛知)」・・・愛知尾張名古屋
             叡智→比叡山
を描くものであるが、
その「根本の動機」というのは
「良く生きること」である
「愛知の目的(徳の探求と学習)」を
明らかにしつつ、
「無知の知」を自覚させ、
「人間のpsyche(プシュケー、命、魂)」を
「愛知の道の出発点」に立たせようとする
 ↓↑
ソクラテスの
倫理的な徳目が
「何であるか」を問い求め
示唆を得て、
ソクラテスの問いに答えるような
「まさに〜であるもの」
あるいは
「〜そのモノの存在(イデア)」
を想定し、
この「イデア」のみが
知のめざすべき
時空を超えた
「非物体的な・永遠の実在・真実在」
 であり、このイデア抜きにしては
 「確実な知」はありえない・・・
 ↓↑
中期の哲学
「パイドン(想起)
 (アナムネーシス)」・・・阿拿務音重詞諏
              真理認識に至る過程
              人間の魂は、
              肉体に宿る前に
              天界で眺めていた
              イデアを想起し
              真理を認識する
という考え方の導入
「学習」というのは
「想起」である、という説明
「プシュケー(魂)」
というのは不滅
輪廻転生を繰り返し
もともとは
霊界にいてそこで
イデアを見ていたのであって、
こちらの世界へと来る時に
それを忘れてしまったが、
こちらの世界
で肉体を使い
不完全な像を見ることにより
イデアを思い出しているのだ、
それが
「学習」と考えた
この「想起」という考え方によって、
プラトンは
「徳」とは
「何であるかの
 問いに答えられない
 不知な
 対象は探求は不可能だ」
とする
「探求のパラドックス」
は間違っているとする
プラトンは
「philosophy(愛知)」というのは、
「死の練習」なのであって、
「真の愛知者」というのは、
できるかぎり
自分のプシュケーをその身体から
分離解放し、
プシュケーが
純粋にそれ自体において
あるように努める者だ、
とする
愛知者の「プシュケーが知る対象」として
提示されるのが
「イデア」である
 ↓↑
プシュケーの徳
「美そのもの(美のイデア)」
「正そのもの(正のイデア)」
「善そのもの(善のイデア)」
などを提示
「愛知の道」の全体像が提示
「善そのもの」は、
「知と真実の原因」
とされ、
太陽にも喩えられた
 ↓↑
「愛知者のプシュケー」が、
問答法によって
「善そのもの」へ向かい、
それを観ずることによって、
自らのうちに
「知と真実」をうむ
「善そのもの」を頂点とした
「イデア」を模範とすることで、
自己自身である
自分の「プシュケー」を
その「イデア」の
似姿として形づくる
 ↓↑
イデアの種類
様々な一般的な性質に対応する
「大そのもの」
「小そのもの」
などが提示された
「単相」
「純粋」
といった
存在論からのものや、
「知られるもの」
といった
認識論からのものも示された
 ↓↑
「美そのもの」

「美しいものども」との関係
「分有」
あるいは
「与り」の関係
「イデア原因説」と呼ばれる
前者が「範」であり、
後者が「似像」として理解されるときは
「類似」の関係だと言われる
「パラデイグマ・範形イデア論」
などと呼ばれる
 ↓↑
イデアの措定の困難を弁証的に越え、
『第三人間論』などでは
イデア論批判なども行う。
それとともに
「想起説」などが取り下げられ、
イデアやエイドスは、
中期のそれとは異なったものになり、
「分割と総合」の手続きにより
新たに定義される問答法で扱われる
「形相」、あるいは
「類」として
理解されるようになる
 ↓↑
後世の人々
プラトンの弟子の
アリストテレスは、
「形相」や
「類」の
分割や
交わりが引き起こす
「1対多問題」や、
定義の「一性」問題について考察しつつ、
自己の哲学を確立していった
 ↓↑
500年後
プロティノス
万物は一者(善のイデア)から流出した
(→ネオプラトニズム)
「イデア」が実在すると考える考えは
後に
「idealism(観念論)」
「実在論(realism)」
の系譜に属する、とされるようになった・・・?
 ↓↑ ↓↑
ーーーーーー
「禿(はげ)」であるカナ・・・すり切れる・ちびる
       禿筆
       穂先の擦り切れた筆・ちびた筆
       自分の文章や筆力を稚拙、謙遜していう
       禿筆を呵す
       穂先の擦り切れた筆に
       息を吹きかけて書く
       下手な文章を書くこと       
 ↓↑
近世以後「かむろ」とも
子供の髪形の一
髪(かみ)の末(すえ)を
切りそろえて
結ばないでいるもの
その髪形の子供
「髪をカムロに切りまはし(平家物語)」
髪のない頭・はげ
・・・「神室(かむろ)」・・・神室山地・・・
秋田県、宮城県、山形県の3県に連なる山地
東は栗駒山(1627m)
西は神室山(1365m)・・・・・・神室山(カムロやま)
雄勝峠(427m)
北は虎毛山(1433m)
南は禿岳(小鏑山・1262m)・・・禿岳(ハゲだけ・トクガク)?
               小鏑山(こかぶらやま)
花淵山(985m)
 ↓↑
ストレスで髪が
抜ける
円形脱毛症
 ↓↑
円形脱毛症には
アレルギーなどが原因の場合もある
ケルズス禿瘡など
 ↓↑
「禿(かぶろ、かむろ)」
頭に髪がないこと
肩までで切りそろえた児童期の髪型
その髪型をした子供
狭義では、
江戸時代の遊郭に住む
童女
 ↓↑
『平家物語』では、
平安京に放たれる平家方の密偵の子供
禿(かむろ、かぶろ)は
遊女見習いの幼女をさす
 ↓↑
「おかっぱの髪型」からつけられた名
時代と共に
髪を結うようになってからも、
遊郭に住み込む幼女のことを
かむろ
と呼んだ
7〜8歳頃に
遊郭に売られてきた
女子や、
遊女の産んだ娘が該当
最上級の
太夫、
花魁
と呼ばれた高級女郎の下について、
身のまわりの世話をしながら、
遊女としてのあり方などを学んだ
禿の年齢を過ぎると
「新造」となって、
遊女見習いの後期段階に入っていく
嶋原では、
芸妓に付き添う幼女も
「禿」と呼ばれた。
 ↓↑
引込禿
通常の「禿」とは違い、
遊女の世話を離れて
楼主から茶道、華道、香道などの
英才教育をうけていた者
大商人や大身の武家を相手に
稼ぐことのできそうな
素質をもつ子が選ばれた
 ↓↑
髪型
江戸中期頃までは、
「おかっぱ頭」だったが、
江戸後期以降は、
吉原等では
「禿島田」という
髪飾りを沢山付けた
「高島田」になった
嶋原も江戸後期から戦前までは
日本髪を結っていた
 ↓↑
「禿(祇園祭)」
長刀鉾の稚児を補佐する
2名の少年も、「禿」と呼ばれる
太夫級の遊女、
または
芸妓が
2名の禿を従えていることに
なぞらえたものと見られる。
 ↓↑
『平家物語』に登場する「禿」
『平家物語』には、平安時代末期に
平清盛が実権を握った際、
「禿、禿童(かぶろ、かむろ)」
と呼ばれた多数の「禿の頭髪の童子(及び童形の者)」を平安京
内に放ち、市井の情報、特に平氏に対する批判や、謀議の情報な
どを集めて密告させた
平家物語
「14歳、15歳の童を300人えらんで、髪をかむろに切りまわし、赤
い直垂を着せ、京の市中を徘徊させ、平家のことをあしざまにい
うものがあれば、これを聴きだして、その家に乱入し、資財、雑
具を没収し、当人をとらえて六波羅に検束した。市中のものはお
それて関わらないようにした。禿童は自由に宮中にさえではいり
し、禁門をとおっても姓名をたずねる者さえなかった」
 ↓↑
ハゲ(禿、禿げ)
加齢、疾病
投薬の副作用、火傷、遺伝的要因
髪の毛が薄いか、
全くない頭部などを指す
ハゲた場合
頭皮に艶(つや)が出やすい
頭部がつるつるに禿げている様を指し、
「つるっぱげ(つるっ禿げ)」
 ↓↑
「ツルハゲ→金柑(キンカン→金橘・キンキツ)頭」は
「本能寺の変(天正十年六月二日・1582年6月21日)」の、
「明智光秀」ではなく、・・・「禿ネヅミ」は秀吉だが、
「児玉源太郎」であろう・・・
 ↓↑
「金柑(キンカン)あたま→蛙玉(アタマ)
             カエルの
            (御玉杓子
             児珠・小玉・木霊
             児玉の杓子)」だろう?
         児玉  源太郎
        (こだま げんたろう)
         嘉永五年閏二月二十五日
        (1852年4月14日)〜
         明治三十九年
        (1906年)7月23日
         周防国都濃郡徳山村(山口県周南市)
         で誕生
         徳山藩士、児玉半九郎忠碩の長男
         父が幽閉され悶死
         1864.8.12(元治一年)
         浅見次郎彦が姉の久子の
         婿として家を継ぐが
         次郎彦が斬殺され、
         児玉家断絶
         1865.7.13(慶応一年)
         児玉家再興・中小姓
         元服して、源太郎忠精
         十月に馬廻役
         藩の献功隊士として戊辰戦争に参加
         1866.6(慶応二年)
         安芸口の戦いに従軍〜
         陸軍大将
         正二位勲一等功一級子爵
         日露戦争
         満州軍総参謀長
 ↓↑
「かぶろ」
前髪の末を切りそろえ
後髪も結わずに
そろえて垂らす髪型
江戸時代
吉原などの遊所で
大夫、天神など
上級の遊女に仕え、
将来
遊女となるための
修業をしていた少女
ーーーーー
 上玉・・・
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