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2016年01月10日19:29

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推理小説と戦士と娼婦と夢

●年末からエラリー・クィーンの『ローマ帽子の謎』『中途の家』その他の推理小説を約40年ぶりくらいに、何点か連読したが、推理よりも、一個の小説として読んだ場合、この人は、映画のような流れの文章を書く作家だと思う。つまり、情景描写的な部分を、登場人物の、どうでもいいような会話の連続で流してしまうのだ。
●例えば、映画には、「やあ」とか「どうぞ」とか、日常の何気ない会話の言葉が頻出する。小説では大抵の場合、その手の科白は省略され、「愛想よく挨拶を交わした」というような情景文になるが、「やあ」とか「どうぞ」の類を執拗に書いているとでもいえようか。
●逆な意味で面白いのは、脚本家の書いた小説かもしれない。その1つのサンプルとして、やはり中学生の頃に読んだ橋本忍の『悪の紋章』がある。地の文が、小説風の長いト書きという様相だ。
●推理小説といえば、第二次大戦中のドイツのゲルト・フォン・ルントシュテット元帥はマニアであり、中でもA・クリスティの愛読者で、いつも軍服のポケットに忍ばせており、作戦が失敗した時、彼の参謀や幕僚は、「また推理小説の読み過ぎだ」と陰で噂していたらしい。
●ヒトラーを「ボヘミアの伍長」と小馬鹿にしていたプロイセン的なフォン・ルントシュテット元帥はヒトラーに苦言を呈することの出来た数少ない将軍だった。ドイツの作戦が失敗し、ヨードル大将がアドバイスを求めた時、ルントシュテットが「戦争を辞めることだ」と言ったのは有名。
●戦争期の日本は英米の小説は翻訳出来なかったが、フランスは親枢軸の中立だったので、バレスその他、戦争中に翻訳もされており、読むのも可だった。推理小説でもガストン・ルルーの『黄色い部屋の謎』などは読めた。

●ユンガーは、そのニヒリズム論(というより、ニヒリズムという状況の記述)でもある『線を越えて』の中でヘンリー・ミラーに言及している。ユンガーとヘンリー・ミラーといえば、『鋼鉄の嵐の中で』と『北回帰線』を比べるまでもなく、いろんな意味で対極的だが、私は、どちらも愛好している。
●ユンガーの『鋼鉄の嵐の中で』は、戦場における戦闘と戦士の話とすれば、ヘンリー・ミラーの『北回帰線』は、大都市における自由気儘な生活と性の話だが、共通しているのは、どちらも、市民の他者であるところだろう。市民に対する戦士と娼婦のようなものだ。

●夢で、よく、無機質な部屋にいる自分が登場する。無機質とは生活色が無いということだが、しかもその部屋は、夢の設定でも、誰も知らない部屋のようだ。誰も知らないとは、その部屋にいる僕は、存在証明的には存在しないという設定なのだろうか。
●夢に現れる現実は、夜であったり、地下であったり、密室だったりして、賑やかな昼間の地上というのは、まず無い。これはやはり自我の意識構造の在り方の結果なのだろうか。
●夜に、隣の町へ行くのに、近道として人気のない荒涼とした森の中にある広大な墓場(夢のなかでも地獄の何とかと噂されていた)を通って行く夢があった。夢の中では怖いというより、不思議な奇妙な感覚だった。
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