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2016年01月04日22:24

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2016年、新年を迎えて


 年末からダラダラと読書したり寝たりすることを交互にしている間に年も明け、そして正月の三賀日も過ぎた。このまま春になり、桜が咲いたかと思うと、初夏になり、あっという間に猛暑の夏になるのだろう。
 それでも折にふれてTwitterに、いつものように思いつくままに書いたことから、幾つかを、近況報告の代わりに、Facebookへ転載しておこう。

●年が明けた。春頃の誕生日が来れば、また歳を1つとることになるが、歳を重ねていくと、「在る」ということの不思議さ、「在る」ということは、どういうことなのかという問いが身体化されてくる感じがする。
●年末年始は、紅白も朝生その他も興味がないので無視して眠っている間に年が明けて正月となり、しばらくツァラの詩集を読み、再び、眠りにつき、少し前に目が覚める。私には格別の嬉しい良い夢を見た。所謂初夢は今夜見るものらしいから、初夢にはならないが、それには関係なしに喜ぼう。
●年明けでよく覚えているのは、東武東上線の東武練馬駅近くに住んでいた時のことで、当時の妻が郷里の熊本へ帰り、一人残った私は、柳田国男の『遠野物語』を読みながら新年を迎えた時だった。とても怖い本を読んだという実感が湧いたことを覚えている。
●箱根駅伝は、関東のローカル駅伝にすぎない。高校野球の地方戦のようなものであり、そんなものを全国ネットで流すなと言いたい。
●思想と文学の違いはいろいろあるが、例えば、四季の感覚についてもそうだろう。文学はある意味で現象の表現だから四季の変化についても繊細だが、思想を本質の探求とすれば、四季の変化などそれ自体ではどうでもよくなる。正月についても同様だろう。
●例えば、作家は街に出て、正月の風景や人々の動きを観察するならば、思想家は、寝正月で終わるだろう。作家には、現象の機微が面白く、興味の対象になるが、思想家にはそんなことはどうでもよく、時が流れているということだけが重要だったりする。
●年末から、何をとち狂ったのか、約40年ぶりくらいに、昔、読んだE・クィーン、D・カー、クロフツ等の推理小説で、まだ結果的に持っていたものを読んでいる。昔は推理小説は小説様式の謎解きクイズの感覚が強かったが、小説的要素の方を読もうと思っている。謎よりも描写だ。
●かつて推理小説といえば、英米かフランスであり、ドイツにはあまりなかった。これは推理小説の成立の背景には市民革命が必要ということだと思うが、ドイツも近年、かつてのヒトラー・ユーゲント指導者のB・フォン・シーラッハの孫が推理作家として邦訳もされている。
●エルンスト・ユンガー自身、1985年だから90歳の時に『危険な出逢い』というベルエポック時代のパリを舞台にした推理小説を書き、当時、「あのユンガーが推理小説を」と独仏では話題となったが、決して単なる手遊びではなく、ちゃんと推理小説になっている。
●柄谷行人は「世界共和国へ」と言うが、世界共和国は、ひょっとすると地獄ではあるまいか。ショーペンハウアーが最大の地獄だというところの退屈の地獄だ。それは生きながらにして死の世界ではないか。
●人間は、分離し、対立しあう異なる世界を持つから生きてゆけるのであり、抗争は絶望をもたらすが、世界共和国には絶望もなく、そこでは人間は生きる屍となる。だから世界共和国よりも永遠の動乱や現存の世界秩序に刃向かう勢力の存在が希望になったりする。
●H・アーレントによれば国民国家は帝国ではなく帝国主義となり支配権を握る国民国家による圧政となるが、第二次大戦の際、世界を植民地として支配した連合国に対して、国民ではなく人種やアジアという広域的立場をとった枢軸国は、より帝国主義的問題を持つ反面、帝国への可能性もあったのではないか。
●枢軸国の侵略や帝国主義を批判する言説は無数にあるが、批判の順番を間違っていないか。まず、支配者だった連合国の帝国主義を批判すべきであり、枢軸国の帝国主義批判は、それを前提にしてなされるべきだ。でなければ、枢軸国への批判は連合国の帝国主義の肯定になろう。
●いや、連合国の帝国主義も批判していると、その人たちは言うだろう。しかし、連合国よりも枢軸国の後発の帝国主義への批判を優先させることにより、当人たちの自覚とは関係なく、構造的に連合国の帝国主義を肯定しており、それが言説の政治というものなのだ。
●枢軸国の帝国主義は、後発であるため粗暴であり、残虐さが目立つが、悪辣さと陰湿さでは、連合国の先発の帝国主義の比ではない。世界支配の既得権を握っていた連合国の帝国主義に比べれば、枢軸国の帝国主義など不良青年の暴力行為のようなものだろう。
●柄谷行人のいう世界共和国の世界とは国連だとすれば、国連とは戦争期の連合国であり、連合国世界論になる。ところで日本とドイツはまだ国連の敵性国家のままであり、世界共和国の敵であり外部だ。ドイツはその思想化を禁止されているが、日本は可能であり、世界の外部としての日本を思想化すべきだ。

 個々のことについては、同意されるものも反発されるものもあるだろうが、それが当然で、同意されるにせよ反発されるにせよ、何らかの思索を再起動される要因にでもなればと願っている。
 昨年は、7月下旬に『思想としてのファシズム──「大東亜戦争」と1968』(彩流社)を出し、書物の内容や性質から爆発的売れ行きは望めないが、着実には売れているようだ。既存の思想が、どれもこれも、なぜ駄目なのかということにも触れており、まだ、という方は、ご一読いただければと思う。本年も著書を出す予定であり、政策志向や表象文化論に流れる思想や表現を撃つものを問うことが出来ればと思っている。
 また、キタの梅田と並ぶ、大阪の二大繁華街であるミナミの難波界隈の一角の千日前という知る人ぞ知る地で開催している毎月の定例の研究会も、地元の大阪や京都、神戸、奈良等の近圏からだけでなく、東北、関東、東京から四国、中国、九州からの参加者を迎え、また、世界革命の極左や、八紘一宇の極右から左翼、保守、アナキスト、ボルシェヴィキ、ファシスト、保守革命派、ユンガー主義者、ワーグナー派、マリネッティ主義者、ダダイスト、芸術至上派、ジャーマン・ロック絶対派、神秘主義者、錬金術研究者、国体論者、神職、作家、大学教員、院生、学部生、無職遊民、その他、既存の政治や思想、表現等に批判的な、有名無名の人士が、会によって入れ替わり参加し、活況を呈した。まだ来ていないのは、既存の政党支持の保守や革新、社民、構改という連中か。レイシストも一度来たが、左翼ではなく、右翼や、さらにはファシストからも批判され、居場所がなかったようだ。本年も、さらに刺激的な場にしたいと考えている。

 Facebookの友達及びフォローしてくれている諸氏へ、本年もよろしくお願いします。
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