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2015年10月30日22:23

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小椋 佳〜昭和歌謡曲80〜「さらば青春」より「屋根のない車」

〜あるいは、会社員と別の顔、二足の草鞋を履くこと〜

☆小椋 佳基本データ
・本名:神田 紘爾(こうじ)
*「小椋 佳」という芸名は、彼が大学生の時に福島県耶麻郡北塩原村に
滞在中、周りの住民の姓のほとんどが「小椋」姓であったことに
より命名したとのこと。
ならその時「谷」姓の住民が多くいたなら、「谷佳」になっていたんだな。ガチョ――ン!あせあせ

・出身地:東京都下谷区(現、台東区)
・生年月日:1944年1月18日 *北野武と同じ誕生日
・最終学歴:東京大学法学部
・本職:日本勧業銀行の銀行員(93年退行)
・歌手デビュー:1971年2月、デビュー曲「しおさいの歌」

手(パー)最初に聞いた彼の曲は、「さらば青春」だった。
(デビュー曲「しおさいの歌」のB面)


確か、72年頃、ラジオの深夜放送、
それもパックインミュージック金曜日の第2部(AM3〜5〕だったと思う。
金曜パック第1部(野沢那智&白石冬美)は、当時楽しみにしていたが、
その番組では邦楽は掛からない。深夜3時から始まる
第2部(ミドリブタこと林美雄がDJ)も、時々、そのままの流れで30分くらい
聞いていた時があったが、そこで聞いた記憶がある。

その後、‘75年頃の小椋ブームの時、
彼のナンバーに「さらば青春」があると聞いて、そこで思い出した。
曲名は覚えていたが、歌手が小椋佳というのは記憶に留まらなかった。

しかし、題名とメロディ、♪僕は振り返りはしない♪
という歌い出しはハッキリ覚えていた。

でも、16歳の私は青春が始まったばかりで
「さらば青春」などと歌われてもピンと来なかった。
まぁテーマはA面の「しおさいの歌」と同じなんだが、
歌詞に比喩的な表現が多いと感じた。

その75年の小椋ブームとは、
布施明に提供した「シクラメンのかほり」が同年のレコード大賞、
日本歌謡大賞グランプリを受賞。
その作詞、作曲者として大いにクローズアップされた。
もっとも、小椋はその前にアルバムを数枚リリースして、
固定ファンは獲得していたが。

そんな以前からのファンである友人からアルバム
「彷徨(さまよい)」(中央画像)を借りてテープに
ダビングさせてもらった。

その中で、気にいった曲は
るんるん「小さなプラタナス」


ムード「この空の青さは」



しかし、歌手・小椋佳が好きかと言えば微妙。渋すぎる。
外見は、どう見てもオッサンだし(左画像)。

それに、彼の詞は、失恋してグズグズ、
青春が終わってグダグダいう後ろ向きな曲が多い!
と小椋ファンの友人に行ったら、
「屋根のない車」を勧められた。
http://www.uta-net.com/movie/95039/

これは「屋根のない車(オープンカー=速い車のことだろう)」に乗って、
「見たことのない輝く鳥(青春・目的)」を追いかける、というものだ。

手(チョキ)布施明が歌う小椋佳の作品は好き。
「シクラメンのかほり」のB面の「淋しい時」は今ひとつだったが、
同曲を中心に小椋が布施に提供したアルバム「シクラメンのかほりから」を
フォト
買ったが名曲揃いだった。これ布施の歌唱力と萩田 光雄の編曲の勝利だな!

詞も格調高い。特に「ゆきどまりの海」が好きだった。

まぁ、このアルバムの曲も「失恋とか青春が終わってどうのこうの」
という歌詞だがあせあせ

るんるん75年「シクラメンのかほり」の後にリリースした「傾いた道しるべ」
今くらい(晩秋)の季節に合う曲。


「夜のヒットスタジオ」のものだが、
オープニングの紹介リレーでシンシアが布施の「積木の部屋」を歌っている。
その後、布施が引き次いだのだが、その後方で出演者の振りはなんだ?
「がきデカ」の「死刑のポーズ」&「シェー!」じゃないか?(苦笑)

で、この「傾いた道しるべ」のB面「鳥の背に」もなかなかグッド!
しかし、♪渡る鳥の背乗せたいよ。わびしさを♪
そんなものを乗せられたら、鳥だって迷惑だよ!重くて飛べないだろ!?

この前後、小椋は他のアーティストに曲や詞を提供している。
やはり、その時に若者の間で人気が沸騰していた井上陽水に「白い一日」の詞
あと、日本テレビのドラマ、「俺たちの旅」中村雅俊が主演し、
彼が歌った主題歌の作詞・作曲

手(パー)でも私が小椋に注目したのは、彼の本業は、
日本勧業銀行の銀行マンであり、その業務をこなしながら、
趣味の音楽でレコード大賞グランプリ曲まで作ったことである。
これこそ、「屋根のない車」のテーマではないかな?
一度見失った「輝く鳥」を追いかけるために、銀行に入ってから、
また音楽活動を始めた。
こういう会社員をやりながら、創作活動をやって、もうひとつ別の世界を
持てる人に憧れた。

えんぴつ後年、私が会社員になった時、83年、「コミックモーニング」に
イラスト風の漫画「『ハートカクテル』が連載された。((右画像)
この画風、‘80年代のトレンディードラマを感じさせる。
フォト
フォト

漫画としては、ストーリー性がないけれど、オールカラーで斬新だった。
そして、作者のわたせせいぞうとは、聞けば、彼も保険会社の営業マンで、
仕事と両立させて漫画を描いているそうだ。
今、検索したら、この漫画が始まって、わりとすぐに退職していたんだな(85年)

ペンあと、そういう活動をしている人のハシリは、
戦後間もない時に、サラリーマン小説を発表していた源氏鶏太。
これも会社員の生活を描いた作品なので、興味深く読めた。
フォト
まぁ、もう、かなり古色蒼然としていたが。
それに、そんなことを言えば夏目漱石も森鴎外も、
余技で小説を書いていたわけだが。

私は、音楽も絵の才能もないが、短編小説とかエッセイとか、
文芸誌に募集が載っている時に数点応募したなぁ。
まぁ入選したことはないけれど。さらば青春だな。
入社3年目というのは、色々と悩むんだよね。
■32%が3年以内に離職=12年春の大卒者―厚労省
(時事通信社 - 10月30日 17:02)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=4&from=diary&id=3689330



そんな夢を失いかけた時、プロレス観戦にハマり、
専門誌「週刊プロレス」を愛読していた。
あまつさえ、そこの編集長とも会場で声を掛け知り合いになった。
↓こんな人。
フォト

この分野でも、私と同年代で昼間は堅気の会社に勤めながら、
プロレスライターとして活躍している人がいることを知った(業界では有名)。
その人にはとても敵わないが、「週刊プロレス」には、レスラーや関係者、
あるはコアなファンが
毎週、エッセイを見開き2ページで掲載していた。

それを見て、私は、これくらいなら書ける。
これ以上、面白いものを書けると確信した。
♪屋根のない車に乗って、俺も行かなくちゃ♪
で、編集長に直談判して、載せてもらうことに成功。

本当は、青春の思い出に一作のつもりだったが、10年間で、
25作載り、原稿料ももらっていた。
どこの企業も「副職」は禁じている。でも、まぁ仕事に支障がなければOk
言わなければ、バレない、と思っていた。あせあせ

で、私は言っちゃうたんだよな。ふらふら会社でプロレス好きで、
「週刊プロレス」を読んでいる人は無論。
読んでいない人にまで(苦笑)。

それで、最後の方は社長の耳までは届かなくても、
担当役員は知っていたようだ。
それでもお咎めなし。

それに私は原稿料をもらったら、自分のポケットに入れず、
社内の女子社員にパーッと飯を奢ってた。
それで会社に還元していたんだ。
少し、ほんの少しだけ小椋の気分を味わえた気がした。

という事で、最後は小椋 佳とは関係のない話になったが、
これで終わり(^^:




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