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2015年10月18日17:31

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 ソ連消滅はいかに実現されたのか。

 下記は、国際派日本人養成講座からの転載です。

                      記

 No.889 対中戦略を対ソ冷戦の歴史から学ぶ

 << 作成日時 : 2015/03/01 07:42 >>

 ソ連消滅はいかに実現されたのか。

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■1.共産中国への対処法をソ連崩壊の歴史から学ぶ

 共産中国がチベット、ウイグルの人民を弾圧し、土地を奪い、資源を収奪している。同時に南シナ海や東シナ海で海上覇権を狙って、ベトナム、フィリピン、そして日本と摩擦を繰り返している。

 アメリカはグアムまで後退するシナリオも考えているようだが、そうなるとわが国は「中国の海」に浮かぶ孤島となり、日本国民を待ち受けているのは、チベット人やウイグル人のような悲惨な運命である。

 これが現代日本の直面する最大の問題であるが、これに対する対処法を我々は歴史から学ぶ事ができる。中国がやっている事は、かつてのソ連の勢力拡張と同じである。しかし、日米欧の西側諸国は団結してソ連を崩壊させた。

 ソ連がどのように勢力を拡張し、それをいかに西側諸国が打倒したのか、今回はその軌跡を辿ってみよう。


■2.アジアにおける「ドミノ現象」

 アジアにおける共産主義陣営の勢力拡張を許したのは、国共内戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争の3つの戦争である。この3つの戦争により、中国大陸から北朝鮮、ベトナム、カンボジア、ラオスまで共産圏の手に落ちた。

 一国が共産化すれば、周辺諸国が次々と共産化していく有様は「ドミノ現象」と呼ばれた。まさに一列に並べたドミノ牌が次々と倒れていくように、「ドミノ現象」がアジアでも起こっていた。

 国共内戦については弊誌441号「 中国をスターリンに献上した男」[a]で詳細に述べた。ソ連スパイの暗躍した当時の民主党政権下で、陸軍参謀総長、国務長官を歴任したジョージ・マーシャルが蒋介石政権への支援を妨害し、中国共産党の勝利を助けたのである。


■3.民主党政権が招き、勝利寸前で投げ出した朝鮮戦争

 朝鮮戦争のきっかけは、1950年1月12日、マーシャルの副官で、後任の国務長官となったディーン・アチソンが、「アメリカのアジア地域の防衛線には南朝鮮を含めない」と発言したことだった。

 韓国は共産陣営に侵略されてもアメリカは関与しない、というメッセージの5ヶ月後に、北朝鮮が38度線を越えて南侵を開始した。ダグラス・マッカーサー率いる国連軍が反撃して、北朝鮮と中国の国境である鴨緑江まで到達した処で、中国軍が参戦した。

 マッカーサーの鴨緑江を越えて戦うという主張で、中国との戦争を恐れたトルーマン大統領は、マッカーサーを解任した。アン・コールター女史の『リベラルたちの背信 アメリカを誤らせた民主党の60年』[1]は、こう述べている。

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 マッカーサーの解任でアメリカ国民の盛りは爆発した。トルーマンの逃避政策にはうんざりだった。全米各地でトルーマンの人形に火が放たれ、国際港湾労励者組合はマッカーサーの解任に抗議してストライキを決行した。

帰国したマッカーサーがサンフランシスコの空港に降りたつと、空蕗から市街まで沿道を埋めつくした五十万人が、英嘩の帰還を出迎えた。ニューヨーク市では七百万人が紙ふぶき舞う大パレードに参加し、マッカーサーに歓声を送った。第二次大戦後にヨーロッパから帰国したドワイト・アイゼンハワーを迎えた数の二倍もの人出だった。

ギャラップ世論圃査によると、国民の66パーセントがマッカーサー解任に不満だった。[1,p195]
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 結局、民主党のトルーマン政権は、北朝鮮に侵攻の機会を与えて朝鮮戦争を招き、戦争勝利の可能性を自ら放棄して、現在の38度線の膠着状態に戻しただけに終わった。


■4. 民主党政権がベトナム戦争を始め、南ベトナムを献上した

 ベトナム戦争を始めたのも民主党政権だった。ケネディ大統領はキューバの解放を目指す反革命軍をピッグス湾に侵攻させたが、米軍による航空支援を自ら禁じたため失敗。

 ソ連は報復としてキューバに核を送り、核戦争寸前までいった。キューバ危機は回避できたが、そもそも、この危機はケネディ政権の及び腰のキューバ侵攻が生み出したものだった。[1,p163]

 キューバでの汚名を晴らそうと、ケネディは北ベトナムの攻撃にさらされていた南ベトナムに米軍を送り、ベトナム戦争を始めた。ケネディ大統領が暗殺された後、政権を引き継いだジョンソン大統領は、十分な兵力の投入が必要とする軍部の進言を拒否し、限定的な爆撃作戦に固執した。

 当時の米国内の世論を、アン・コールター女史はこう述べる。

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 左派が戦意をそごうと執拗に努力したにもかかわらず、アメリカ国民の大半は一貫してベトナム戦争を支持していた。反戦運動が国を席巻したという神話など、愚の骨頂である。・・・

ベトナムからの撤退直前まで、この戦争に反対するアメリカ人は20パーセントに満たなかった。・・・

 ベトナム戦争の指揮のまずさが禍して、ジョンソンの再選運動は始まる前に終わっていた。ニューハンプシャー州の予備選が惨憺(さんたん)たる結果だったため、大統領選から身を引いたのだ。不支持層は支持層の2倍にのぼった。ベトナム戦争にもっと強硬姿勢でのぞむべきだという理由からだった。[1,p168]
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 ベトナム戦争を「名誉あるかたちで終わらせる」と公約して、政権をとった共和党のニクソン大統領は1973年1月のパリ協定で停戦を実現した。その停戦協定を北ベトナム側が破ったら、アメリカは北への爆撃を再開し、南ベトナムを援助する、という歯止めをニクソン大統領はかけていた。

 しかし、同年6月に、ニクソン政権が民主党本部に盗聴装置をしかけたと疑われたウォーターゲート事件が起こり、その渦中で議会側が、爆撃再開には議会の事前承認がいると要求した。この時とばかり北ベトナムは停戦協定を破って数ヶ月のうちに南に侵攻した。

 さらに民主党の支配する米議会は南ベトナムへの援助をすべて拒否した。アメリカに見捨てられた南ベトナムは、北ベトナムに征服された。

 結局、ベトナム戦争は民主党のケネディ政権が始め、そして民主党の議会が南ベトナムを見捨てて共産側に差し出したのである。


■5.アメリカの両腕を縛っていた民主党とリベラル・マスコミ

 以上のように、アジアにおいては、国共内戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争と、アメリカは十分な支援も戦力投入もせずに、中国大陸からベトナム・カンボジア・ラオスまでを共産圏に奪われていった。

 日本やドイツと戦っていた時の強大な軍事力と勝利への決意を抱いていたアメリカはどこへ行ったのか。アメリカ国民が反戦気分に充ち満ちていたというのは、上記のように事実ではない。

 ただ、前章で引用した一文中の「左派が戦意をそごうと執拗に努力した」という点は要注意である。たとえば、以下のような内容である。

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 国民の志気をくじこうと、アメリカの残虐行為のやらせ写真を嬉々として公開した。不首尾に終わったが、ベトコンのテト攻勢のような敵方の総反抗は勝利とみなされた。『ニューヨーク・タイムス』は、この戦争についての記述すべてに、「勝てない」という言葉を入れるよう求めていた。[1,p167]

 1964年、当時の『ニューヨーク・タイムズ』発行人アーサー・サルズバーガーは、典型的なリベラル流の愛国心を披露した。「ベトナムの農民にわれわれがしてやれることが果たして・・・共産主義者がしてやれることよりいいかどうか」[1,p170]
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 こうしたマスコミを支配していた共産主義シンパが、民主党を操って、ソ連とは戦えないようにアメリカの両腕を縛っていたのである。

 このあたりは、日本のマスコミもベトコンの民衆に対する残虐行為をほとんど報道せず、民衆はベトコンを支持しているなどと報道し、また左翼学生運動や社会党、共産党がベトナム反戦を訴えて、激しいデモを展開していたのと同様だった。[b]


■6.レーガン大統領の「解決策」

 ソ連が次々と勢力を広げていったドミノ現象を食い止め、逆方向に倒して、遂にはソ連崩壊まで実現させたのがロナルド・レーガン大統領だった。

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 レーガンは前フォード政権の国務長官ヘンリー・キッシンジャーをことのほか激しく非難した。1976年、キッシンジャーは「ソビエトの勢力拡大を防ぐことはできない」と宣言していた。「必要からくる共存」を推進し、アメリカ国民に「簡単な解決策があるという幻想に惑わされないように」警告した。

レーガンには「解決策」があった。アメリカは勝ち、ソ連は敗れるものと信じていた。デタント(緊張緩和)を「七面鳥業者と七面鳥との関係---ただし感謝祭までの」と言ってのけた。レーガンがキッシンジャーの政策を揶揄したのがあまりにもうけたので、フォード大統領は選挙戦で「デタント」という言葉を使わないよう命じるはめになった。[1,p205]
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 レーガンの「解決策」とは、次のような内容だった。

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 レーガンは冷戦を楽しんでいた。ソ連がミサイルを一基つくれば、アメリカは二基つくった。リベラルの平和主義者たちの大抗議にもかまわず、ヨーロッパにパーシング・ミサイルを配備した。共産政権下のグレナダに侵攻し、ものの数日で共産主義者の巣窟を一掃した。

アンゴラ、アフガニスタン、エチオピア、ポーランド、ニカラグアなど、世界じゅうで公然と反共勢力を支援した。[1,p205]
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 レーガン大統領は、石油規制緩和により、石油価格を急落させて、石油輸出に大きく依存するソ連経済への追い打ちをかけた。

 さらに戦略防衛構想(SDI)を発表した。これはソ連の核ミサイルをレーザー衛星や地上の迎撃システムで撃ち落としてしまう、という防衛システムである。ソ連は核の脅しをかけられなくなれば、ただの低開発国に過ぎなくなる。


■7.レーガン大統領が取り除いたソ連共産主義の脅威

 国力の疲弊とSDI構想に怯えたソ連のゴルバチョフ共産党書記長は、1986年10月13日、アイスランドのレイキャヴィークで大規模な兵器削減の提案を行った。その条件の一つにはSDIの放棄が含まれていた。

「戦争の抑止、デタント、封じ込め」で良しとする今までの民主党の大統領たちなら、嬉々として交渉に応じただろう。しかし、レーガン大統領の目指したのは、世界を共産主義から解放するという事だった。当然、レーガンは突っぱねた。

 これに対するニューヨーク・タイムズの批判が、リベラルの本質をよく現している。

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 レイキャヴィーク会談を終えたいま、SDIは平和の実現を妨げる障害のシンボル、軍国主義者の陰謀の典型、人類を核の脅威から解放したくない意思の表れであることが、だれの目にもはっきりした。[1,p207]
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 アメリカ国民をソ連の核ミサイルから護ろうとする防衛システムであるSDIを「軍国主義者の陰謀」と呼ぶ姿勢は、中国の脅威から日本国民を守ろうとする集団的自衛権を「戦争への道」と評した日本の左翼マスコミと同じである。

 レーガン大統領の2期8年でソ連は軍事的にも経済的にも追い詰められ、後継のブッシュ大統領が就任した翌年1989年にはベルリンの壁が崩壊し、東欧諸国が開放された。1991年にはソ連邦そのものが消滅。レーガン大統領は冷戦への勝利をもたらし、世界を共産主義の圧政と恐怖から解放した。


■8.「専制と隷従と圧迫と偏狭を地上から永遠に払拭しよう」

 レーガン大統領が幸運だったのは、イギリスのサッチャー首相、日本の中曽根首相という良き協力者を得られたことだった。日本はアメリカの国債を買ってその軍備拡張を支えた。自衛隊は極東ソ連軍と対峙し、また佐世保などの優れた補修能力は米艦隊の運航に不可欠だった。冷戦の勝利においてわが国の果たした役割は無視できない。

 わが国は戦前はソ連共産主義の防波堤となり[c]、戦後は東南アジアに経済的繁栄をもたらしてアジアの共産化を防いだ。そして冷戦では米欧との結束により、ソ連崩壊を導いたのである。

 しかし、ソ連は崩壊したが、替わって台頭した中国の脅威に、わが国を含むアジア諸国はさらされている。中国のご機嫌取りに終始する日本の民主党や左翼マスコミは、レーガン登場前のアメリカの民主党とリベラル・マスコミに瓜二つである。

 我々、日本とアジア各国の自由独立、そして弾圧されているウイグル、チベット、さらには漢民族自身を解放するためにも、今の中国共産党政権を消滅させなければならない。

 その使命は日本国憲法前文に明記されている。「我らは、平和を維持し、専制と隷従と圧迫と偏狭を地上から永遠に払拭しようと努めてゐる国際社会に伍して、名誉ある地位を占めたいものと思ふ」と。
(文責:伊勢雅臣)

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