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2015年10月17日14:21

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世界記憶遺産「南京大虐殺」登録は日本の失態〜ユネスコがどんな組織か知らなかったのか?

 下記は、2015.10.16 付のJBpressに寄稿した、 産経新聞ワシントン駐在 客員特派員 古森 義久 氏の記事です。

                    記

 国連教育科学文化機関(ユネスコ)は、中国が申請した「南京大虐殺文書」を世界記憶遺産に登録した。

 中国政府の年来の「南京大虐殺」に関する一方的な主張に国連機関が認定を与えた形となり、日本にとっては極めて不当な措置だと言えよう。中国政府がこの登録を日本攻撃の材料として政治的に利用することも十分に予想される。

 日本政府が最終段階で強く反対したにもかかわらず、ユネスコはなぜ、歴史的検証には耐えられない中国側の主張を認めたのか。

 日本政府、特に外務省は、中国が南京事件の自国側の資料を記憶遺産に登録させようとする動きに対して、タイムリーな阻止活動を行わなかった。加えて、ユネスコという国連機関の特殊性や世界記憶遺産の登録システムの特徴を十分に把握していなかった。少なくともこの2点が日本の失態を招いた理由だと言えるだろう。

 ユネスコが管理する3つの「遺産」

 まず世界記憶遺産とはなにかを説明しよう。

 ユネスコが運営し、管理する「遺産」には3種類の制度がある。

 第1が「世界遺産」制度である。第2は「無形文化遺産」の事業である。「世界遺産」が建築物や景観など有形の文化財の保護や継承を目的としているのに対し、「無形文化遺産」は民族の慣習、芸能、風俗などの無形の財を対象とする。

 そして第3が今回、関心を集めた「世界記憶遺産」である。「記憶」というのは原則として過去の貴重な文化の形成に関する古文書や書物など歴史的な記録資料を指す。その種の登録資料をデジタル化などで保存し、広く公開することが事業の主体となる。

 ただし第1の「世界遺産」と第2の「無形文化遺産」はともに国連の条約に基づく保護活動である。それに対して第3の「世界記憶遺産」はユネスコによる単なる選定であり、緩やかな保護の対象になるだけである。

 しかし条約の支えがなくても、「記憶遺産」は国連のユネスコの名称を背負っての認定である。シンボル的な意味合いが強いとはいえ、保存のために必要な国連資金も出る。そのため、各国の政府は自国が誇る記憶遺産をユネスコに認めさせ、国内外へのアピールや宣伝を行う。

 これまでユネスコの「遺産」に対しての日本での関心は、官民ともに「世界遺産」に集中し、「記憶遺産」にはほとんど注意が向けられなかった。その世界遺産には今年7月に日本の申請した「明治日本の産業革命遺産」なども登録され、日本国内は喜びにわいた。世界遺産の登録は現在、全世界で合計1031件であり、そのうち19件が日本の遺産である。

 ところが「記憶遺産」は全世界で合計348件、そのうち日本は今回の新登録前までわずか2件だった。日本ではそもそも関心がなかったと言ってよい。ちなみに他の国ではフランスの「人権宣言」、オランダの「アンネの日記」、ドイツの詩人ゲーテ直筆の作品や日記などが登録されている。

 記憶遺産の登録に積極的に取り組んできた中国

 中国は記憶遺産への登録申請活動を日本よりもずっと熱心に行ってきた。今回の追加登録前までに、故宮博物館所蔵の清代歴史文書や雲南省の少数民族が伝える古文書など、合計7件の登録に成功してきた。

 ちなみに韓国も中国に負けず劣らず熱心に動き、今回の追加登録の前までに合計9件の記憶遺産の登録を果たしている。朝鮮王朝実録をはじめ、「承政院」という王朝の秘書室的な機関の長大な記録「承政院日記」などが対象である。

 さて、中国に関して重要なのは、中国政府が南京事件の資料を記憶遺産に登録申請する方針を早くから公表していた事実である。中国外務省の華春瑩報道官は2014年6月の記者会見で次のように述べていた。

 「中国は『記憶遺産』の登録に積極的に取り組んでおり、このほど『南京大虐殺』と『従軍慰安婦』に関する 貴重な歴史資料の登録申請を行った」

 つまり、南京事件と慰安婦とを中国が登録する世界記憶遺産として認めることをユネスコに公式に申請した、というのである。

 ユネスコを道具にして記憶遺産登録を利用する対日宣伝戦は、ほぼ1年半も前に公然と宣言されていた。だが日本の外務省が中国の登録活動を阻もうとした形跡は、今年10月のユネスコの最終協議以前はまったくない。こうした点から、日本政府はタイムリーな活動が欠如していたと言わざるをえない。

 伏魔殿のようだったユネスコという組織

 第2に、日本はユネスコの特殊性や記憶遺産の登録システムの特徴をきちんと理解していなかった。

 日本にはまず国連に対して、戦後の早い時期から幻想とも呼べるような特殊な思い入れがあった。「世界の平和と安定を保つために、世界のどの国家よりも強い権限を有する国際組織が国連である」という信仰にも近い認識だった。しかも、国連は「公明正大」だと信じ込む傾向が戦後の日本に長く根を張ってきた。

 だが現実には、国連とは各国のギラギラとしたエゴがぶつかりあう駆け引きの場である。個別の主権国家がただ集まっているだけで、国連という手段をただただ利用して自国の利益になる事業を推し進めることが優先される。

 特に記憶遺産を含む世界遺産事業を仕切るユネスコは、国連の多数の専門機関の中でも強烈な悪臭を放つ伏魔殿のようだった歴史がある。

 日本ではユネスコといえば、「国連教育科学文化機関」という名称どおり、世界の科学や文化の発展に寄与する崇高な使命の国際組織だと思っている向きが多いだろう。だが、ユネスコには組織全体が1人の特異な人物に事実上、乗っ取られてしまった不幸な時代もあった。

 ユネスコはパリに本部をおき、組織の実務の最高責任者は事務局長である。1974年、そのポストにセネガルの教員出身のアマドゥ・マハタル・ムボウという人物が選ばれた。押しが強く、頭の回転も速いムボウ氏は、アフリカ人として初めて国連機関のトップに立った。

 同氏は事務局長の座を結局13年間も独占し、その間、反欧米の姿勢を強めた。世界の情報を欧米諸国のニュースメディアが独占するのはけしからんとして、「新世界情報秩序」という野心的な構想を打ち出した。ユネスコが主体となって世界の報道や情報の秩序を再編するという案だった。

 ムボウ氏はユネスコの運営でも独裁をきわめた。特に問題視されたのが度重なる縁故人事、公金流用などである。米国のレーガン政権は1984年、国連への供出金の4分の1を出してきたという立場から、ユネスコの会計監査を求めた。パリのユネスコ本部でいよいよ米国政府代表らが立ち入り監査をしようとすると、その直前に不審な火事が起きて、書類の多くが燃えてしまった。パリ警察は放火だと断定した。

 米国はムボウ体制に強く抗議し、1984年末にはユネスコを脱退した。復帰したのは、それから20年近く経った2003年だった。その間、イギリスやシンガポールもユネスコのあり方に抗議して脱退している。

 ユネスコとはそんな不透明、不明朗な歴史を持つ国連機関なのである。内外からの政治的操作に弱い体質の機関だと言ってもよい(ただし、日本外務省出身の松浦晃一郎氏が事務局長を務めた1999年からの10年間は国際的な評判は良かった)。

 日本外務省に欠けていたロビー活動

 現在の事務局長はブルガリアの外務大臣を歴任した女性のイリナ・ボゴバ氏である。ムボウ時代とは体制を一新しているとはいえ、第三世界が主導する伝統があり、組織運営にも凹凸がある国際機関であることは変わらない。

日本がユネスコを自国に有利な方向へ動かすには、公式、非公式を問わず文字どおりあの手この手の裏技が必要なのである。

 だが、世界遺産や世界記憶遺産の登録に際して、日本政府がユネスコにロビー工作などを仕掛けた形跡はない。ユネスコを政治目的のために操ろうというような発想は、少なくともこれまで日本国外務省にはなかったのである。

 ユネスコで記憶遺産を決定する組織としては「世界記憶遺産登録のための国際諮問委員会(ICA)」が存在する。ICAでは、事務局長が任命する14人のメンバーが2年ごとに記憶遺産の登録を決めている。現在のこの14人は、日本と中国・韓国のどちらにも特に密着していない国の出身者ばかりだという。日本としてはロビー工作の余地は十分にあったのである。

 国際諮問委員会の下には、全世界の各地域の委員会も存在する。日本や中国・韓国は「世界記憶遺産アジア太平洋地域委員会」に所属する。この委員会も当然これからの日本の働きかけの対象となる。

 ユネスコに対する、記憶遺産登録のための「ロビー工作」や「働きかけ」は日本がこれまで得意とはしてこなかった作業、いや事実上、手をつけることのなかった活動である。ODA(政府開発援助)などの経済援助を利用した要請や要求、あるいはその他の外交案件でのギブ・アンド・テイクの駆け引きは、日本外務省の得意技ではない。

 だが、そもそも各国のエゴがぎらつく国連の体質を考えれば、日本も今回の記憶遺産登録ではユネスコに対してあらゆる手を使って訴えや揺さぶりをかけるべきだった。それがなかったことが失敗だったのである。

 http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/44996

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