【現代語訳】
宇宙の本質と一致して、本来ありのままの真実の自己がある。また、身体という仮りの姿をした自己がある。この真己・仮己の二つの自己のあることをよく認めて、仮の自己のために真の自己を駄目にしてはいけない。
【原文】
本然の真己有り。軀殻の仮己有り。須らく自ら認得を要すべし。 (言志録122)
【解説1】
人間には心という真の己と肉体という仮の己が存在している。この2つの自己があることを良く理解しておかねばならない、と一斎先生は言います。
この章はどう解釈すれば良いのでしょうか?
真の己である心が仮の己である身体を支配するようにすべきであって、身体が心を支配するようではいけない。
小生は、そう解釈したいと思います。
小生の営業の師匠である中村信仁氏は、心が技術を超えない限り、決して技術は生かされないと常々言われております。
技術を学ぶことはもちろん大切な事です。しかし技術を手に入れれば売れるというものではありません。
やり方よりも在り方が大切なのだ、と中村さんは仰っています。
技術を手に入れるのは身体です。
技術主導では、身体が主、心が従となってしまいます。
営業の世界でも、心が主、身体が従となったとき、つまり心の在り方が大変重要だということです。
・・・・「一日一斎『言志四録』を味わう」より。
【解説2】
我に「本然の真己」と「軀殻の仮己」とある。そしてその区別は自分自身で厳しい自己分析を行って、自ら認識悟得せよ、と一斎はいっている。
「本然の真己」とは、その人間の本来のものである。これに対して「軀殻の仮己」とは形の上の仮のもの――たとえば、服装とか、持ち物とか、財産とか、肩書とかというようなものである。どうも世間では、これらの「軀殻」のものを以て、人を評価することが案外多い。
ちょっと立派な服装をして、何々会社重役などという名刺でも示されると、その「仮己」にだまされてころりとまいる。が、実は自分に対してもそうなのである。
しかし、その「仮己」は要するに「仮己」で、やがてバケの皮がはがれる。私どもは「本然の真己」を認得せねばならない。それは火にも焼けず、水にも流されぬ「真宝」である。田や畑や、黄金や殿堂や、それらを宝と考えやすいが、こういうものは泥棒に盗まれたり、火炎で焼けたり、案外頼りにならぬ「仮宝」である。
「真己」はこれらのものを生み出していく根本力である。私どもはそれに気づいて、これを養い、これを磨き、これを堅持せねばならぬ。これのみが真己であり、真宝を生み出すが故にだ。
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