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2015年10月10日17:39

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言志晩録243条「快事は人に譲る」

<現代語訳>
人と共に仕事をする場合、人には楽しい仕事を担当させ、自分は面倒な仕事を担当すれば、仕事そのものは苦しいだろうが、心は晴れ晴れする。自分が楽しい仕事をし、彼が面倒な仕事をすれば、仕事はスムーズに片づくだろうが、心は苦しい。

<原文>
人と事を共にするに、かれは快事を担(にな)い、われは苦事に任ぜば、事は苦なりといえども、意は則ち快なり。われは快事を担(にな)い、かれは苦事に任ぜば、事は快なりといえども、意は則ち苦なり 。(言志晩録243条)


<解説>
私たちは目先の利益にとらわれて、自分はやさしい仕事を取り、人に面倒な仕事を回しがちである。それが一般的な人間の、ごくふつうの行動パターンである。しかし、相手と自分の関係という面から見ると、信頼や尊敬の気持ちは消えてゆき、ビジネスライクな関係だけになっていく。

一斉はそれを問題にした。普通の人間関係ならそれでもいいのだが、それを一歩超えて「あの人は信じられる」と言われるようになるのには、相手の信頼を得るような行為をしなければならない。自分が先に汗を流し、血を流すようなことをして初めて、人は信用するようになる。これは人間関係を築いていく際の基本である。

「言志晩録」のこの条は改めて日々のあり方について考えさせる。

働き盛りの夫が、ある事故によって植物人間になってしまった婦人がいる。彼女は夫を看病し、家計を支えるために、スナックを始めた。親戚や知人は、夜の商売なんてとんでもないと反対したが、昼間夫の看病をする時間を取るためには、そうするしかなかった。時には友だちとコーヒータイムを持ちたいと思っただろう。温泉旅行にも行きたかっただろう。

でも、そんな時間は持てなかった。親身な看病にもかかわらず、夫は10年経った今でも、寝たきりの植物人間である。不運な人生というしかない。ところがその婦人はその状況に感謝すらして、こう言うのだ。

「夫の看病を通して、悲しみを通してしか見えない世界があることを知りました。このことがなければ、私は人々の笑い顔の背後にある苦しみや痛みを知ることがない、カタワな人間になっていたと思います」。

その婦人は不運といえる状況を通して、大きな世界を掴んだのだ。それは私に相田みつをの次のような詩を想起させた・


むかしの人の詩にありました。

君看(み)よ双眼のいろ
語らざれば憂い無きに似たり

憂いがないのではありません
悲しみがないのでもありません
語らないだけなんです
語れないほどふかい憂いだからです
語れないほど重い悲しみだからです

人にいくら説明したって
全くわかってもらえないから
語ることをやめて
じっとこらえているんです

文字もことばにも
到底表わせない
ふかい憂いを
おもいかなしみを
こころの底ふかく
ずっしりしずめて
じっと黙っているから
まなこが澄んでくるのです

澄んだ眼の底にある
ふかい憂いのわかる人間になろう

君看よ双眼のいろ
語らざれば憂い無きに似たり
語らざれば憂い
無きに似たり



相田みつをは悲しみにじっと耐えているから、まなこが澄んでくるのだという。私はその婦人の澄んだ瞳を見たとき、私の全部を無条件で受け入れられたような懐の深さを感じた。

「俺について来い!」と叫ぶだけの猛将は、この包容力を持たない。リーダシップとは包容力の別の謂いではないだろうか。




以上、神渡良平「佐藤一斉・言志四録を読む」より。



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